土日

 土曜日。朝起きたら、妻はもう仕事でいなかった。慌てて、月イチ恒例の団地の掃除へ。小雨だったけど、決行らしい。一応それなりに精力的に、セイタカアワダチソウを抜く。
 ふと、午後は、長男のサッカー大会@庄内緑地公園があるにもかかわらず、家の配水管の掃除も重なっていることに気づく。「なんだよ重なってるじゃんか…」と、自分もきちんとチェックしていないのが悪いのに、少々腹を立てて妻にメール。結局、祖母(妻の母)がサッカーには連れて行くことに。
 ご飯を食べた後で子どもたちは、サッカーに出かけ、「ちょっと寝よう」と思って、ちょっとだけ寝たところで、予想より一時間以上くらい早く、業者さんが登場。まあ、そのおかげで、サッカー大会の途中から見に行くことができた。
 何でも、僕が到着した時には、既に長男は3ゴールも決めていたらしい。試合を見ていると、まあ、小学校低学年だから仕方ないのだけれど、みんなボールに密集している。サッカーでも、バスケットでも、ある程度やると、プレイヤーの位置取りのバランスが重要ということが体に染み付いてくるのだが、さすがにまだ無理らしく、ボールが右に行けば右に、左に行けば左に、という感じで、大移動している。
 長男に、「ボールにみんなが集まっている時は、わざと反対の空いているところで待つんだよ」と言うと、「先生(コーチ)から聞いている」とのお返事。で、しっかり最後の試合では、それを実践して、フリーでボールを受けて、高原のような(←親バカ)シュートをゴール右すみに決めた。まあ、何だかんだ言って、上手になったものだ。
 家に帰ると長男は寝てしまったのだが、その後、頭痛と発熱で苦しんでいた。日曜の午後になるとずいぶん元気になったけど、まあ、彼なりにがんばって疲れたのかな、と思う。
 日曜もまた朝から妻は仕事。仕事というのは、部活の顧問なのだが、もうすぐ試合(というか、演劇なのでなんというのだったかな)なので、休日も、練習とか会議とかそんなのばっかなのである。土日に熱心に部活をやってくれる先生を、「よい先生」という向きも多いけれども、それが「よい先生」の基準ならば、まともに「家庭」を顧みる気ならば、「よい先生」になることは不可能である。学者もそうだけれど、「家庭など存在しないかのように行動できる人」が「熱心」とか「よい」とか言われることを、何とかしていかなければ。
 子ども(というか次男)にご飯を食べさせたあと、ビデオを見ている次男をおいて(失礼)、長男と一緒に二度寝。電話か何かでおきると、次男は「トムとジェリー」を見ながら、ケタケタ笑っていた。図書館でDVDとかを見ているときも、うちの子はあんまり「ケタケタ」と笑うので、「もう少し静かに見てください」と注意されるらしい(苦笑)。まあ、根っからの善人なのだろう。きっと。
 洗濯物と布団を干して、昼過ぎに妻が帰ってきたので、ご飯も少し作って、ゴロゴロしながら、昨日か一昨日かに届いた某ゲラの校正をする。多分10月ごろに刊行されるであろう某本の一章である。しかし、(本当に)自慢でもなんでもないのだけれど、これが出るとその時点で、今年に入ってから、5本目である。ちょっと前に校正をやったのが、きっと同時期に出ると思うので、それを含めると、6本目ということになる。この中には、以前に書いたものの加筆修正バージョンもいくつか含まれているので、その点は割り引かないといけないけれど、我ながらないチエを絞りすぎであるように思う。でも、走れる時にとことん走っておかなければならない時もある。きっと今はそういう時期なのだ。
 夕方から次男を連れて、某アピタに買い物に。しょっちゅう行っているように見せかけて、実は結構久しぶりのような気がする。「長男の靴下だけ」とか言いながら、結局、いろいろと買ってしまう。次男は、恐竜キングで、「とうさんの(じゃんけんのアドバイスの)せいで負けた」とちょっと怒っていた。
 そうそう。高3の時に亡くなった友人のお父さんお母さんから、キュウリ、トマト、ナス、かぼちゃなどなど野菜をたくさん送っていただいた。彼が亡くなったのは、1989年2月だから、もう18年も経つ。彼が生きた長さと同じだけの時間が流れたことになる。彼の顔を最後に見たのは、1988年の4月か5月。某高校でのバスケットの大会の時である。彼は中学の途中で転校し、その後、会っていなかった。僕たちのチームが高2秋の新人戦で20点差で負けた福山のチームに10点差で勝った後だったと思う。相変わらずの笑顔で、「あのゾーンプレスは練習しとったん?」「(僕らのチームが勝って)ちょっと驚いたよ。だって、(以前に僕たちが後半逆転勝ちした)○○高校の連中が『修道は大したことない』って、言いふらしとったけえ」などと、言っていたと記憶している。それっきり、彼と再会することはなかった。彼の具合が相当悪いことは何となくわかっていたのだけれども、受験であることを恐らくは言い訳にして、一度も見舞いにも行かず、悔いを残した。亡くなって何年間も、時々、彼が出てくる夢を見た。夢の中の彼は元気で、「あれ、本当は生きていたんだ?よかった」と思っては、目が覚めた。博論を書いた後に、お墓参りに行った。新幹線の中で、人は生活のたいていの場面で利己的であるとしても、しかしそれが全てではないのではないか、と思ったことが、博論の次の論文のモティーフの一つとなった。その時からも、既に8年以上が経った。あの時、彼の生まれ変わりかと思った、彼の姪にあたる子どもさんも、ずいぶん大きくなったことだろう。
 僕の名前がカバーに書かれた単著、共編著はお送りしている。カバーに名前の入った本を少しでも多く出せるように、努力していきたい。あらためて、冥福を祈る。