先生は記憶に残るべきか

時々妻と話すのだけど、「先生は記憶に残るべき」なのだろうか?
一般に先生というのは、児童・生徒・学生(なお、前に書いたけど、大学は「学生」で「生徒」ではない)が接する数少ない大人の一人なので、いろいろな意味で、教えられる側の記憶に残りやすい。
とりわけ、よい意味で影響を受けたと教えられる側が感じている場合というのは、先生からすると、素直に、とてもうれしいことである。たとえば、「先生のあの言葉に勇気づけられた/頑張ることができた/立ち直ることができた」という具合に。
でも、先生に限らないけど、強い印象を残すということは、往々にして、独善とか一方的とかということと紙一重なのである。
単に、独善的だったり一方的だったりする物言いや振る舞いを、教える/教えられるという非対称性ゆえに、(事後的に)認知的に歪曲して、「親身だった」とか、「厳しいけど、よく考えてくれている」とかいう具合に認識していることもあるはずだ。
先生に、何らかの暴力的な振る舞いを受けて、その時はムカついたり、嫌だったり、深く傷ついたりしたはずなのに、あとで、「先生はワタシのことをよく考えてくれていたのだ」と思えたら、それでよいのだろうか。
どうも、僕にはそう思えない。どうしても、暴力的な振る舞いには、教育的観点以上のものが含まれてしまっているのではないか、という疑念を捨てきれないからだ。
だとすれば、傷を受けたのだが、しかし、事後的に振り返ると「よかった」という形で、「よい先生」として記憶に残るような先生にはなりたくない、と思う。そうであるくらいならば、記憶に残らないくらいの存在であるほうが、はるかにマシなのではないだろうか、とすら思う。
いや、実は、あまり個別には記憶に残っていない先生こそが、「先生」としては立派なのかもしれない。きっと、そういう「先生」は、暴力やひどい物言いで、児童・生徒・学生を傷つけることはなかっただろうから。
とはいえ、名前くらいは覚えていてほしいとは思ってしまうのだけれども。