読書

「資本」論―取引する身体/取引される身体 (ちくま新書)

「資本」論―取引する身体/取引される身体 (ちくま新書)

 飛行機の中で、ようやく読みました。不勉強な僕には、前半でのホッブズ、ロック、ルソーの社会契約論の整理は勉強になりました。とくにルソーは改めて面白いな、と。
 とはいえ、どうしてこういう話をしているのか、前半ではわかりかねるところもあったのですが、後半に進んで、(具体的な説明のところはあんまりわからなくなりましたが)全体的な狙いはわかるような気がしてきました。
 以下、あまり復習しないで書いているメモです(ので、誤読の可能性大)。
 「人的資本=労働力」が示すように、これは、マル経の可能性を、マルクスの基本概念の一つである「労働力」から、再度切り開く試みです。つまり、「労働力」を「人的資本」と等号で結ぶことによって、一人一人の人間が「商品」ならぬ「財産」の持ち主であること、
それゆえ、(ロック的)社会契約論的な枠組で考えても契約者として自らの財産たる「労働力」の保障を求めることが可能になること、が述べられているのです。
 さらに、「労働力」を「人的『資本』」と等号で結んでいることで、資本家と労働者との弁証法的対立の止揚の今日的表現形態を著者は見出そうとした、とも言えるのではないでしょうか?労働力の持ち主はすなわち(人的)資本の持ち主であり、そうであるからこそ、誰もが「資本(財産)の所有者」として尊重される社会が到来する可能性が理論的に開けることになるのです。
 なるほど、方法論的個人主義を擁護するという著者の主張の意味がわかったような気がします(って、間違っているかもしれませんが)。
 しかし、最後の方で、わりと長く、「人的資本=労働力」が好ましくない帰結を招く可能性について言及しているあたり、著者も、まだまだお悩みなのかもしれません。確かに、「資本」所有者の中から「没落」していく層が出てくると、結局、(人的「資本」を)「持つ者」と「持たざる者」との格差が増大していくことになります。そうすると、新しい「階級対立」が激化し、少数の特権的な「ブルジョワ」が打倒される日が到来するかもしれません。
 もっとも、もしそうなったらなったで、マルクス主義的には問題ない、ということかもしれませんが。階級対立の激化→革命→より望ましい社会、というわけで。
 と、最後の方は、かなり乱暴な印象論ですので、間違っていたらご容赦を。
 ところで、稲葉さんの本をよむと、帰りの飛行機では、あとがきにも出てきた、読みかけでストップ(=挫折)していた、この本に挑戦するしかないかもしれません。
私的所有論

私的所有論

 さて、どうなることか。