ベンヤミン@進歩と停止

ヴァルター・ベンヤミンが「俗流史的唯物論社会民主党を批判して書いた論考「歴史の概念について」より。
ベンヤミン(浅井健二郎編訳、久保哲司訳)『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』ちくま学芸文庫、1995年。

ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)

ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)

ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐が彼を、背を向けている未来の方へ引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。(653頁)

労働とは何か、についてのこの俗流マルクス主義的概念は、労働者が労働の生産物を手中にしえないかぎり、その生産物は労働者自身にとってどう役立つのか、という問いにほとんどかかわりあおうとしない。この労働概念は、ただ自然支配の進歩だけを認めて、社会の退歩を認めようとはしないのだ。この労働概念は、のちにファシズムにおいて見えることになる、技術万能主義的特徴をすでに示している。・・・俗流マルクス主義が理解する意味での労働は、詰まるところ自然の搾取に帰するのであり、なのにそれを彼らはプロレタリアートの搾取に対立させて、おめでたい満足感に浸っているのだ。(655-656頁)

社会民主主義の理論は、そしてそれ以上に実践は、現実を拠り所とするのではない、ドグマ的な要求を隠しもつ進歩概念によって規定されていた。社会民主主義者の脳裡に想い描かれていた進歩とは、ひとつには・・・人類そのものの進歩であった。それは、第二に・・・完結することのない進歩だった。それは、第三に、(自動的なものとして直線なり螺旋なりの軌跡をえがく連続的な)本質的に停止することのない進歩と見なされた。・・・歴史のなかで人類が進歩するという観念は、歴史が均質で空虚な時間をたどって連続的に進行するという観念と、切り離すことができない。この歴史進行の観念に対する批判こそが、進歩そのものの観念に対する批判の基盤を形成しなければならないのだ。(658-659頁)