行政フェミニズムは「後退」なのか?

ということを考えている。これは、「男女共同参画」という言葉によって、性差別があいまい化してしまっている、という主張ともつながるようだ。
ラディカルな運動が「体制内化」することへの批判と「制度への長征」との対立は、常に存在する。そういう意味では、これは、格段に目新しいテーマではない。「資本主義への構造的依存」(A. Przeworski)であるか、「システム」(Habermas)であるか、はたまた古典的に「支配の道具」であるかはともかくとして、行政・国家というものが社会からの要求をダイレクトに反応できるものではないことはある意味当然である。「性差別禁止」でも、「男女平等」でもなく、「男女共同参画」となったのも、その一例として理解できると思う。
 問題は、ダイレクトではないけれども、それなりに反応できるとするのか、それともそもそもそのような可能性は一切ないとするのか、ということだろう。もっとも、これも以前からある問題で、僕が比較的好んで読んできた文献たちの中では、おおむね、前者の方向で答えが出ているといえば出ている。それでも、やっぱり冒頭のような批判も出てくる。それで、改めてきちんと考えることもしなければいけないかな、と思っているのである(が、結論は書かずに終わってしまうのであった)。