頂いたこの本↓を半分くらい読む。消極的自由への批判の紹介・検討のところまで。
- 作者: 齋藤純一
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/12/21
- メディア: 単行本
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- 作者: 佐藤俊樹
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/02/18
- メディア: 新書
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あと、法律時報965号のうち、君塚正臣「憲法とジェンダー」、岡野八代「ジェンダーの政治に賭けられているもの」、細谷実「『ジェンダー・フリー』をめぐるバックラッシュを読み解く」などを、読む。君塚論文は総論的な話だが、第一節の最後の方の論旨は、僕には少しわかりにくかった。岡野論文は、男女共同参画をリベラリズムというか近代以降の立憲民主主義の実現として位置づけるもの。「一人ひとりの尊厳」を守るという近代以降の社会の基本条件を実現しようとすることの当たり前さを主張しようとしていると言ってもよい。細谷論文は、「今風のジェンダー保守主義」の存在に注意を促し、その一貫性のなさを批判する。要するに、「今風のジェンダー保守主義」は自己の(私的な)自由が脅かされることには敏感だが、他者の(私的な)自由が脅かされることにはそうではない、というわけである。また、細谷論文では、クォータ制について、フェミニストはこれを正当化する説得的な論拠を提示しえていないのではないか、と問題提起している。「クォータ制を主張する場合、ぜひともリベラリズムと折り合いをつけておく必要がある」(57頁)。もっとも、今、日本で議論されていると思われるクォータ的な制度の多くは、「対等ならば女性を」というラインのもので、「対等でなくとも女性を」という主張は、あまり存在しないと思われる。ただし、「台頭ならば女性を」でも、リベラルな個人主義に反すると判断される可能性がないわけではなく、ヨーロッパでは、「対等でも男性」ということも場合によってはありうるような制度設計が見られるようである(このあたりのことは、上に出てきた君塚氏の以前の論文も含めて、法学者が多く指摘している)。こうやって、「リベラリズムと折り合い」をつけているわけである。とはいえ、この議論の前提は、現状において多くの分野で圧倒的に男女間での格差があるということであり(たとえば、衆議院議員の割合は、女:男=1:9とか)、「それはおかしいことだ」と認識するかどうかが、分かれ道であることに変わりはない。「おかしい」と認識しないのであれば、「クォータ制は、男性であることを理由に差別するもの」という理解になりやすいと思われるからである。