新自由主義と新保守主義の「正しい」結合

http://d.hatena.ne.jp/june_t/20050615/p2より、下記のサイトでの記事を見て。

ジェンダーフリー」批判の基本的な論点が出揃っているように思います。
しかし、いまや明確に「ジェンダーも問題だ」という主張も出てきており、明らかに潮流が変化しているといえます。
ただ、読んでいると、自民党の政治科の発言は、「男女の区別をなくすからけしからん」という論調よりも、「『家族』を解体するからけしからん」という論調のほうが目立つように思います。
1980年代のサッチャーレーガン政権評価以来、市場重視・小さな政府の「新自由主義」が、他方では「伝統的な」家族や「強い」国家を要請する「新保守主義」でもある、というのはほぼ常識的な見解となっていますが、最近の自民党で目立っているのも、そういう意味では極めて典型的な「新自由主義新保守主義」路線、ということになりそうです。
 してみると、最大の問題は、前者の路線が後者の路線を解体する可能性、あるいは後者が前者の桎梏となる可能性ではないか*1、とも思われますが、そのあたりはどのようになっているのでしょうか。
 あと、他にもいろいろ疑問もあります。例えば、低学年でのそのものズバリの性教育が槍玉に上がっているようですが、このことと、男女「混合」のいろいろなこと(名簿とか騎馬戦とか)への批判とは、基本的に一貫しないのではないか、とか。前者は、男女の「違い」を明確にすることになるのに、後者は(批判者曰く)男女の「違いをなくす」ものですから。
 それはともかく、基本に立ち返れば、男女共同参画のポイントは次の二つのはず。この点を押し出すしか、こうした動きに対処することはできないのではないでしょうか。
(1)男女間の差別の問題は、「男女の違い」が「差別」に結びつけられるところにある。だから、男女が「違う」ことで「差別」されることがないようにしていこう、というのが男女共同参画の趣旨のはず(*2。であれば、「男女の違い・特性を認める」ことは、第一に、そもそも、男女共同参画の目的・課題ではありえず、第二に、そのことから発生し得る差別の問題への取り組みを妨げることになるはずです。というわけで、一方で「男女の特性を認めるべき」と主張しながら、他方で「男女差別はよくない」と言われても、本当にそう思っているのか疑わしく思われます。
(2)男女共同参画社会基本法で述べられていることは、個人レベルの思想・信条への規制ではない、ということ。つまり、特定の考え方や社会通念が社会レベルで男女の平等を妨げる効果を持ち得る場合にのみ、問題となるに過ぎないということです。ですから、未だになされている「共産主義」とか「全体主義」という批判は明らかに問題のある批判(というか非難)ということになります。『論座』で北田暁大さんが述べていたように、基本法はその意味では正しく「リベラル」な性質を持つ、と解するべきでしょう。というか、そのようにしか解せないと言うべきでしょう(*3
ジェンダー」と「家族」の問題についても、多くのことが言えそうですが、そのことを考えるのはひとまずやめておきます。 
それにしても、新聞などでは、こういう動向はほとんど取り上げられておりませんね。「たいした動きではない」からなのか、マスコミの側でそもそもあまり関心がないのか。

*1:と書きながら、誰かが言っていたようなと思いました。細谷実さんが『世界』の論考で指摘していました、確か。

*2:たとえ、文言上は「差別」とか「平等」とか書きこまれていなくても。

*3:言うまでもなく、日本は「リベラルな民主主義」の国のはずですから、その範囲内で法律が制定されているのは当然といえますが。