キタキタキタ−−ー!!!???

北田暁大『嗤う日本のナショナリズム』(NHKブックス、2005年)ISBN4140910240(ちなみに「わらう」と読む)が出ました。今日のタイトルは、この本の著者もちょっと「ビクリ」の帯から拝借。詳しくは(というほど詳しくはないが)以下をご参照ください。
http://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/
この本では、『電車男』にみられる「アイロニー(嗤い)と感動指向の共存」や窪塚洋介にみられる「世界指向と実存主義の共存」というアンチノミーがいかにして生成したのか、そして両者はどのような関係をもち、いかなる政治状況を作り出しているのか、ということが検討されます(本書21-22ページより)。僕も、大変関心のある問題であり、「かなり」期待して読んでみたいと思います。しかし、僕が論文一本書くペースで本が一冊出ますねえ(溜息)。
 同じ著者の『論座』3月号「特集 ジェンダーフリーたたきの深層」の「近代的家族の相対化への不安が根っこにある」という文章、こちらもおすすめです。男女共同参画社会基本法を「リベラリズム的な発想」として解釈する説明は、(ある意味では当然の指摘なのですが)巷の様々な批判に対する応答として重要であろうと思います。これまでの政府見解も、基本的にはこのような趣旨でなされてきた「はず」なのですが、その意図は必ずしも十分には伝わっていないと思われます(そもそも政府が「リベラル」以上に「過激な」見解を採用することは難しいはずです)。著者の意図に沿っているかどうかわかりませんが、同論文で述べられている新しい「選択の構造」を作り出すということ、これが「積極的改善措置」のいう「機会の提供」に相当するのではないかと思います。逆に言うと、「選択の構造」を作り変えることなくして、単に「個人の選択」だからという理由で専業主婦、男性稼ぎ手という選択を正当化することには慎重でなくてはならない(この場合、十分な「選択の機会」が保証されているとはいえない中での「選択」ということだからです)、ということです。
 男女共同参画をめぐる主たる論点は、「男らしさ/女らしさ」の肯定/否定ではなく、十分な選択の機会を保障されていなかった(このこと及びその帰結が「不平等」「性別による格差」ということです)女性に、あるいは、例えば「自分は家庭や育児、介護などにウェイトを置いた生活をしたい」と考えているが同じく十分な選択の機会を保障されていなかった男性(こちらはフェミニスト的には批判する人もいるかもしれませんが)に、「選択する機会」を十分に保障すること、でしょう。そのためには、リバタリアン的な無介入ではなく、機会を作り出すための政策による介入が必要ということなのです。