笹沼弘志『ホームレスと自立/排除』大月書店、2008年。
今日の朝日に文章が掲載されていたのを見て、自分の直近の報告にも関係するので、第2章「「自立」とは何か:「自立と連帯」の共生と社会的排除」、第3章「生活保護法と自立の支援:林訴訟と能力活用要件をめぐって」を中心に読む。
- 作者: 笹沼弘志
- 出版社/メーカー: 大月書店
- 発売日: 2008/02
- メディア: 単行本
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とりあえず、「働かざるもの食うべからず」の出所がわかったのと、憲法学における「勤労の義務」の通説的解釈が宮沢俊義氏にあるということがわかった。
そして、その通説は妥当ではない、という著者の議論も興味深い。「働かざるもの」とは、利子や地代などの「不労所得」で生計を立てるものを指していると解するべきということと、十分な就労機会を国家が提供するという義務が先行すると解するべきだということ(よって、国民サイドでは、勤労の権利が先行するということ)。
ただし、リベラリズムに対する批判として、樋口説への批判はよくわかったけれども、そのあとの「リベラリズム社会権」論への批判はちょっとわかりにくい気がした。
第13条でいくか、第25条でいくかの違いがあるということそのものはわかる。また、2章3章だけでなく、本書のサブタイトルや最後の章での議論からしても、「個人の尊重」や「幸福追求権」の擁護という点で、著者と「リベラリズム社会権」論とは一致しているのであろうということもわかる。
わかりにくいというのは、「リベラリズム社会権」論が、個人が(たとえ潜在的でも)自律の能力を有することを前提としていることそのものを問題視しているように読めるところだ。もっとも、これも、法解釈上の論理的な難点ということだけであれば、それなりにはわかるつもりだ。ただ、自律能力を前提としているから新自由主義的構造改革正当化の「傾向にある」(56頁)という話だとすると、それは直ちにそう言えるのかなと思う、ということである。
もっとも、著者のこの認識には、この立場の論者が「『貢献』原則」を支持していることも関わっている。ただ、「自律」と「貢献」が必然的に結びつくわけではない。むしろ、なぜ「自律」論者が「貢献」をも肯定するのかと疑問を呈すればよいのではないだろうか。著者は、「社会権の自律能力による基礎づけの帰結と思われるが、菊池は宮沢に始まる勤労の義務による生存権制約論を積極的に受容している」(55頁)と書いている。ここで、前段と後段は、「帰結と思われるが」という推測で結ばれている。だが、前段と後段が論理的に結びつくのかという形で疑問を呈することもできたはずだ。「個人の尊重」「幸福追求」と労働を通じた「貢献」とは、必然的に一体とは言えないはずだからである。
とはいえ、社会保障を何らかの「能力」と結び付けて正当化しようとすると、能力のある/なしというところで排除の機制が作動する(あるいは、特定の言動を善しとする社会的意識が流通する)可能性があることも確かである。著者は、「能力があろうとなかろうと、「個人の尊重」「幸福追求」は保障されるべきだ」と考えるのだろう。僕自身は、「勤労」の能力ではなく、「個人の尊重」「幸福追求」のためには、「政治」のための能力が必要であり、そのために社会保障が必要だ、という筋道をとりたいと考えている。