読書

こういうことをしている場合ではないけど(言い訳)、東大闘争のところを読み終わり、すべて読了。

1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景

1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景

う〜む、こりゃ難しい。
まあ、僕は全共闘のことなどほとんど知らないのだけど、とりあえず著者は、東大闘争が60年代後半以降の運動の中でかなり異例なものだったことを強調し、かつ、安田講堂の前にほとんど争いは終わっていたのだという観点で描いているように思う。
異例だったのはそうだったのかもしれないが、しかし、社会と大学の変化の中でのアイデンティティのゆらぎという諸運動に共通の(そして著者が強調する)要素が、東大の場合は終わりなき「自己否定」=「自分探し」となっていったとすると、決して異例とは言えないような気もする。


こちらも止まっていたのを、読書再開し、読了。

すべての人にベーシック・インカムを―基本的人権としての所得保障について

すべての人にベーシック・インカムを―基本的人権としての所得保障について

短文や対談、インタビューをまとめた前著よりも、こちらのほうが書き下ろし(?)でまとまっている。というか、前著で断片的に(あるいは簡潔に)書かれていたことが、より丁寧に述べられているという印象。でも、インパクト的には前著の方が強いかな。まあ、それは単純に読んだ順番の問題かもしれない。
印象的なのは、具体的な様々の例の記述とともに書かれるこんなところ。

西欧社会にも貧困が存在することを私は承知しています。しかし、貧困は金銭的な問題であって、社会全体として物資が不足しているわけではない。貧困は『分配』の問題であるのに対して、欠乏は社会全体の富の算出の問題です。貧困は相変わらず政治的に『克服されねばならない』のに対して、欠乏は少なくとも西欧地域では歴史的にも経済的にも『解決済み』です。そのかぎりでは、そもそも欠乏とは無縁の経済・社会秩序が可能であるというのは、じつに人類が新たに経験する現象なのです。(30-31頁)


まあここだけ読むと誤解もされそうだけど、でもここ30年くらいで住まいの「標準装備」が大きく変化したというのは確かだろうなと思う。電気とかガスとか電話とか、「あって当たり前」になったのは(「イエ電」はもはや選択の対象になっているのかもしれないけど)、この30年間のことだろう。


あと、もう一つ、この部分。

ベーシック・インカムはいわばベース・キャンプなのです。市民はそこから出発して、彼自身の意思と責任で活動を開始することができる。こうして基本的に市民の生存権が保障されるので、場合によってはしばらくの間このベースキャンプに戻ってくることもできるわけです。(83頁)