齋藤 2010

  • 齋藤純一「政治的空間における理由と情念」『思想』1033号、2010年5月。

 特集「情念と政治」の巻頭論文(相変わらず書誌情報は出ない)。前半というか三分の二くらいは、ヒュームの議論を整理検討している。これまでの齋藤先生の議論を知っている人には、やや(かなり?)意外な展開に見えてしまうが、院ゼミでもヒュームを扱われているという話だし、そもそも「情念」だから、そんなに意外でもないのかもしれない。
 ヒュームに即して情念の意義を考えていくと、どこまでもこれで行けそうな気がしてくる。しかし、そこにあらためてカント、ハーバーマス的な普遍性を立てて眺めてみると、果たしてヒューム的なパースペクティヴがどこまで「抗事実性」を持っているのかが疑問に見えてくる。「ヒュームにおける抗事実性は、このように事実性の地平にあり、それを超越したところにはない」(26頁)。
 そこで、ではどうするのか、というか、やっぱりカント/ハーバーマス的なものを支持するのか、それともヒューム的なものをなお擁護するのか、という点については、本稿では、やや曖昧なままであるように思われた。つまり、本稿の議論は、カントなりハーバーマスなりとは異なる「コミュニケーションと規範の理解」(27頁)を提出するところで、ひとまずは止められている。
 もっとも、ヒュームにおける視点の移動の「受動性」が「予期せぬ関係の創出」をもたらすことで、私たちのパースペクティヴの「拡がり」が獲得される可能性が、最後に指摘されていて、ヒューム的な観点の可能性を汲み取っていきたい、という方向性にはなっている(なお、そのあとにも、「情念の動員」をどう考えるか、という問題の考察が進められる)。ただ、繰り返しになるけれども、だからヒューム的な観点をカント/ハーバーマス的な観点よりも評価する、ということなのかどうかは、直接には、論じられていない、ということである。


 なお、以上の話は、同誌に所収の拙稿「熟議民主主義における『理性と情念』の位置」での論点とも、実はかなり重なっている。ただし、拙稿の場合は、ヒュームを直接に扱うのではなく(そういう能力はない)、ヒュームをベースに熟議民主主義を一貫して解釈しなおしたSharon Krause, Civil Passionを扱っているのだけれど(なお、齋藤論文でも、クラウス(齋藤論文では「クローゼ」と表記)の議論は補助線として活用されている)。拙稿で書いたことだが、情念の組み込み方の一貫性、という点では、クラウスはかなり徹底していて、彼女の議論に乗っかった上で何らかの批判をするのは、とても難しそうだった(もちろん、ヒュームの専門家ならば、彼女のヒューム理解を批判することはできるのかもしれないが、僕にできるわけはない)。つまり、「情念と理性の組み合わせ(のできのよさ)」という視点で考える限り、彼女の議論を批判するのは難しい。そこで、僕の場合は(も)、ハーバーマスを参照して、既存のコンテクストから距離を取る作用を、クラウスの議論では十分に考慮できないのではないか、と論じてみたのだった。もっとも、僕の最終的な落とし所は、「理性と情念」ではなく「反省性」だ、というところなのだけれど(詳細は拙稿で)。