宇野 2010

シドニーへの行き帰りで、宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』(岩波新書、2010年)を読了。

〈私〉時代のデモクラシー (岩波新書)

〈私〉時代のデモクラシー (岩波新書)

一読しての全体、とりわけ前半の印象は、「再帰的近代化」という状況における「個人」のあり方の変容とそこでの「デモクラシー」の必要性を、実に平易な言葉で、しかし、欧米の社会理論で論じられているポイントは逃さずに、論じている、ということである。その筆さばきは、さすがと言うほかはない。


さて、現代の「新しい個人主義」と言っても、著者の注目するそれは、両義的なものである。一方で、現代の〈私〉は自分の「かけがえのなさ」にこだわる〈私〉である。他方で、その〈私〉は「大勢のうちの一人」でしかない自分というものを「痛いほど自覚している」(41頁)。著者は後者について「独特の無力感」と述べるのであるが、実はこの点が、やや逆説的な形で、〈私〉とデモクラシーを結びつけるロジックを提供しているように思われる。
第四章で論じられるように、「大勢のうちの一人」でしかない個人は、そうであるがゆえに、「たえず他者に影響され、圧倒され続ける」。つまり、そのような個人は他者のことを気にかけ、「他者への関心」を持つのである(153-157頁)。この点の記述の後、議論は「リスペクト」や「名誉と尊厳」「共感」へと移っていくのであるが、恐らくこのあたりの議論の運びは、もう少し詳細な説明が必要であったという印象を受ける。


というのは、こういうことである。〈私〉と「デモクラシー」を結びつけるには、「個人」であるにもかかわらず、どこかで何らかの形で「他者」や「社会」とのつながりがあることを見込まなければならない。本書では、その「つながり」は、一義的には、いささか逆説的な形で、極めて今日的な「個人主義」のありかたから導かれる。つまり、「大勢のうちの一人でしかない」がゆえに「他者」すなわち「社会」への関心を持つ〈私〉、というロジックである。
そうだとすれば、ここで〈私〉と「デモクラシー」はひとまず結びついているのである。ロジックとしては、もしかしたらこれで充分だったのかもしれない。しかし、著者は、さらに「他者への関心」が、自分を他者と同じように引き上げるか、他者を自分と同じように引き下げるかのどちらかになり得ると述べる(157頁)。その上で、著者は(トクヴィルに語らせる形で)前者の意味での「平等」を支持する。そして、このような「平等」のために必要な要素として「リスペクト(の配分)」「尊厳」「共感」などが語られているのである。
このように理解すれば、「リスペクト」「尊厳」「共感」は、著者にとって不可欠のものであることがわかる。ただし、できればこの部分がもう少しページを割いて展開されていれば、なおよかったと思う。というのは、理論的には、この部分が最もスリリングなところであるように思われたからである。


ところで、「他者への関心」以上のものを「デモクラシー」に込めることによって、問題点も生じてくるように思われる。それは、著者が論じようとしているのは、「デモクラシー」そのものなのか、「(デモクラシーにとって必要な)平等」なのか、という問題である。別の言い方をすれば、著者の考える「デモクラシー」が何を意味しているのか、ということである。
大まかに言って、「デモクラシー」を論じる際には、1)人々が集合的な判断や決定に参加できる「条件」を論じる、2)その集合的な判断や決定の「プロセス」のありかたを論じる、という二つの論じ方を考えることができる。これまたおおざっぱに言えば、熟議民主主義論は主に2)の側面を論じる傾向があり、参加民主主義論とりわけキャロル・ペイトマンなどは1)の側面を論じる傾向がある。
この区別でいくと、「リスペクト」「尊厳」「共感」などは、単なる「デモクラシー」ではなく、より(望ましい意味での)「平等な」デモクラシーのありかたの条件であると考えることができる。つまり、これらの概念は、主に1)の「条件」としての「デモクラシー」に関わる問題であると言える。他方、著者が第四章の最後で、ルフォールに依拠しながら論じている「デモクラシー」は、2)の側面に焦点を当てたものである。また、そもそも第三章における現代日本政治のへの視点も、「〈私〉の問題を〈私たちの問題〉へとつなぐ」回路の欠如に焦点を当てるものであり、やはり2)の側面からのデモクラシー論であると言える。
そうだとすれば、著者は、現代社会における問題点を、2)の意味での「デモクラシー」の欠如に見ているにもかかわらず、処方箋の部分では、どちらかと言うと、1)の側面を重視した議論を展開していると見ることができる。
第四章で、特に倫理的な側面での「条件」についての議論が多く展開されているにもかかわらず、デモクラシーのプロセスについては、その不確実性や自己生成的な性質が原理的な点で指摘されるに止まっているように見えるのは、以上のような「デモクラシー」をめぐる二つの論点の区別がそれほど明確ではないからであるように思われる。


本書を読んで気づく、デモクラシーについてのもう一つの問題は、〈私〉が関わる「デモクラシー」はどこにあるのかという問題、言わばデモクラシーの存在論とでも言うべき問題である。私の印象では、著者の議論は、あくまで〈私〉と、通常の意味での「政治」をつなぐデモクラシーに主たる関心があるように思われる。これを、「〈私〉【からの】デモクラシー」と言ってもよい。この場合、どこをデモクラシーの場と見なすか、という問題については、従来の議論とそれほど変化はないように思われる。
しかし、他方で、「個人化」の時代には、「〈私(たち)〉【をめぐる】デモクラシー」というものも重要となる、と見るべきではないだろうか。この「デモクラシー」は、「私的」ないし「親密な」場でも、生じ得るものである。というのも、〈私〉は他者との違いとともに「他者への関心」を持つ存在であるのだから。
「〈私〉【からの】デモクラシー」と「〈私(たち)〉【をめぐる】デモクラシー」とは、二者択一ではない。これらは、「デモクラシー」の複数の回路を構成すると考えることができる。しかし、本書において、後者については、それほど注意が払われているようには思われなかった。現代社会の変化の中でデモクラシーを論じ直す著者の姿勢が明確であるだけに(そうでなければ気にならない)、余計にこの点が気になってしまう。とはいえ、「社会」と「政治」の両方を視野に入れて、「デモクラシー」を論じなおそうとする方向性自体は、私も共有しているものであり、その試みに深く賛意を表したいと思っている。