Olson 2009

Kevin Olson, "Reflexive Democracy as popular Sovereignty," in Boudewijn de Bruin and Christopher F. Zurn (eds.) New Waves in Political Philosophy, Palgrave Macmillan, 2009.

New Waves In Political Philosophy (New Waves in Philosophy)

New Waves In Political Philosophy (New Waves in Philosophy)

同じ著者の本、Reflexive Democracyの続編のような論文。reflexivity概念について、ギデンズ、ハーバーマスのそれを認知的な面に傾斜していると批判し(reflectionの意味が強い)、自らのmaterialismの立場を擁護する。materrialismというのは、人々が(ギデンズやハーバーマスにおいて示唆されているような)再帰的な主体として等しく行動できるようになるための、つまり、この意味での政治的平等を達成するための、物質的条件を重視する立場のことである。
要するに、デモクラシーの主体形成のための条件についての議論で僕にとっては興味のある議論なのだが、いくつか疑問もある。まず、materialismという呼称がよいのかどうかという問題がある。マルクス主義のそれではないと断っているのだが、せめて制度主義とかの方がいいのではという気がする。
それから、そのmaterial conditionsそのものがどうやって実現されるのかという問題には、結局、うまく取り組めていない気がする。オルソンは、物質的側面を重視する理由として、実際のデモクラシーでは物質的な面に起因する政治的不平等が存在するのでといった形で、デモクラシーの経験的・現実的な側面を考慮に入れた議論なのだと主張する。でも、「現実的」と言い始めると、条件がそろっていない状態で条件をそろえるためのデモクラシーがどのようにして可能なのか、という話になってしまうのではないか。だから、この部分はやっぱり規範論(物質的条件が整備される「べき」)ということなのだと思う。
あと、ハーバーマスとの違いは、この論文での整理だとよくわかる。つまり、デモクラティックな「文化」の発展を説く(という意味で、物質的な面よりも認知的な面に傾斜する)ハーバーマスと、「より直接的に」政治的平等の形態を要求する(つまり、デモクラシーのための政治的平等を制度的に実現するべきとする)オルソンとの違い、ということ。これはこれで明快なのだけど、でも、こう整理されると、「福祉国家の反省的継続」についてのハーバーマスの議論がどこかに飛んでしまっているように感じる。
そして、その点を論じていた本では、ハーバーマスとオルソンの違いが、今一歩よくわからなかったのだった。ハーバーマスは、社会保障とデモクラシーを循環的に捉えてしまっているのに対して、オルソンは、社会保障を民主主義から独立して正当化することが必要と論じていた。しかし、(規範的に)「独立」させてしまうと、今度は民主主義との連関で社会保障を論じること自体がナンセンスということにならないのか、という話になってくる。実際、今回の論文では、「独立」というよりも、民主主義関与のための能力促進、政治的平等の達成のために物質的条件が重要、と言っているわけで・・・。