読書

 いただいた宇野重規『民主主義のつくり方』筑摩書房、2013年、を早速読了。

民主主義のつくり方 (筑摩選書)

民主主義のつくり方 (筑摩選書)

 アメリカ在外研究中にプラグマティズムにはまったという著者が、なぜそうなったのかがよくわかる本だった。
 問題は個人化を認めつつ、そこからどのようにして政治・民主主義の回路(それは集合的なものである)をつくりだすか、という点にある。
 この問題は、『〈私〉時代のデモクラシー』岩波新書、2010年、でも扱われていたのだけれど、『〈私〉時代』では、問題の所在は的確に指摘されているものの、その解決策については展開され切ってはいなかったように思う(このことは『つくり方』のあとがきでも示唆されている)。
 『つくり方』では、プラグマティズム、とりわけその「習慣」概念に出会うことで、『〈私〉時代』において不十分だったところが論じられている。
 プラグマティズムの「習慣」論のメリットは、少なくとも二つある。一つは、それが、偶然性・不確定性から出発しつつ、それでもある秩序が形成され、かつ、変化にも開かれているということである。「いわば習慣とは、定着・安定と修正・変化の両側面を伴った媒体なのである」(123頁)。もう一つは、習慣が、あくまで「個人」を担い手としつつ、他の人々・社会へと伝播するものとして理解されていることである。著者は、「習慣の個人化を前提に、むしろ習慣を通じて人と人とがつながっていく可能性」(139頁)に注目するのである。
 このようなプラグマティズムの考え方を採用することで、「一般意志」にもとづく「〈ルソー型〉民主主義」およびその根底にある「主権論」に依拠しない形で民主主義を擁護することが可能になる、というのが著者の立場である(なお、こうした主権論の見直しと民主主義論の再考という問題関心は、國分功一郎『来るべき民主主義』幻冬舎新書、と重なるところがあるように思う。より抽象的には、鵜飼健史『人民主権について』法政大学出版局、とも関連するだろうか)。
 本書では、政治理論・哲学の様々な議論や実際の様々な「民主主義の種子」が紹介・検討されており、時々「うまく結びついているのかな?」と思うところもないではないように思う。しかし、それらのほとんどは、(思い起こしてみれば)ここ数年の著者の様々な研究活動上の関心の圏内にあったものであり、それらを本書に収斂させようとする意図は十分に了解できるものである。かつ、上記のように、プラグマティズムを基礎として民主主義の新たな構想を打ち出すという本書の狙いは、きわめて明確である。
 なお、「あとがき」では、著者の単著の「デモクラシー三部作」が語られているが、私たちの共著のその名も『デモクラシーの擁護』も、「プラス1」として付け加えていただければと思う(笑)。
〈私〉時代のデモクラシー (岩波新書)

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人民主権について (サピエンティア)

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デモクラシーの擁護 ―再帰化する現代社会で―

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