読書

以前に頂いていた、金慧「自律と所有――自己尊重の社会的基盤をめぐって」須賀晃一・齋藤純一編『政治経済学の規範理論』(勁草書房、2011年)を読了。

政治経済学の規範理論

政治経済学の規範理論

 著者の主張は明確である。つまり、「自律」(他者の意志に従属しない状態)のためには、「所有」によって可能となる「自己尊重(self-respect)」が必要だということである(117頁)。この点を著者は、アレントロールズの思想の検討によって確認していく。両者は、異なる点もあるものの、どちらも、所有→自己尊重→自律という議論を行っているとされる。
 個人的には、特にアレントの解釈を興味深く読んだ。僕が素人だからかもしれないが、アレントにおいて、私的領域=私有財産が社会的評価を相対化し得るがゆえに自己尊重の基盤となるという議論は、大変興味深く思えた。
 ただ、そのアレント論にも、疑問がわく。つまり、このように私的領域=私有財産の意義を評価の仕方は、ある意味でごく標準的なリベラリズム自由主義の考えを再現なのではないのか、という疑問である。アレントが私的領域(私有財産)を社会(的価値評価)から身を守るための場として見ていたというのは、確かに興味深い。しかし、そのような議論は、わりと標準的な自由主義においても、なされているように思う。となると、アレントの独自性は、どのように考えられるのだろうか。
 本稿全体に関わる疑問としては、次のことがある。すなわち、「財産」の保障が「自己尊重」の条件であるとしても、そこから「自律」、とりわけ「公的」自律に至るかどうかは必ずしも必然ではないのではないか、という点である。著者の理解するアレントロールズに、所有→自己尊重→(恐らくは「公的」)自律という論理を見出すことができるのかもしれない。しかし、「条件」がそろえば、人は(公的に)自律するのかどうかはわからない。条件がそろっても、人は、喜んで他者の意志に従うかもしれない。とりわけ、公共的な問題については(公的自律については)、そうかもしれない。アレントの描く個人は、私的領域=私的所有によって自己尊重を獲得したのち、なぜ、公的領域に「必ず」出ていくと言えるのだろうか。
 もう少し言えば、現代社会で、政治や民主主義について考える際の難問は、ここにあるのではないだろうか。もちろん、現代社会において、私たちは、人々に「公的に自律せよ」と強制することはできない。だから、議論できるのはどこまでも、公的な自律の「条件」であるとしても、それは問題があるというよりは、むしろ妥当な結論であるかもしれない。しかし、それでも政治理論は、「その次」を考えてもよいように思う。「強制」と「条件」の間で、「所有と(公的)自律」について、どのような論じ方ができるのか・・・
・・・と、まあ、本稿を読んで、そんなことを考えたのだった。著者の議論の意図とはずいぶんずれてしまったかもしれないけれど、そこはどうかお許しを。