読書

ちょっと仕事の関係もあり、「はじめに」、第2部「知識の代わりに希望を」を駆け足で、そして第4部「政治」の諸論文をば。

いくつかメモ。

キリスト教徒やマルクス主義者が予言成就の延期を弁明し、再び信用を取り戻そうとして何を言っても、ほとんどの人には、それを真面目に受け取ることはもはやできない。しかし、そうだからといって、『新約聖書』や『共産党宣言』のなかにインスピレーションや励ましを見出すことができなくなるわけではないし、そうなってはならない。なぜなら、両書ともおなじ希望を表明しているからである。それはすなわち、身近な人びとや愛する人びとがもつ必要性に対してなら、われわれは敬意と配慮をもって処遇しているが、いつの日か、それとおなじ敬意と配慮を払って、あらゆる人間の必要性をもすすんで処遇することができるようになるという希望である。(261-262頁)

よりはっきりとした言い方をするなら、われわれは、知的進歩も道徳的進歩も、「真」や「善」や「正」に近づいていくということではなく、想像する力能が増大していくことであると見る。つまり、想像力を、文化が深化する切っ先であり――平和と繁栄が与えられるなら――人間の未来を過去よりも豊かにするべく絶えず作動している力能としてみるのである。・・・想像力こそ、ニュートンとキリストが、フロイトマルクスが、共通してもっていたものであった。それは、なじみの事柄をなじみのない用語で再記述する能力である。(179頁)

↑ローティにとって、「なじみのない用語」で記述するとは、つまり、人びとの協働を作り出すことであり、「ある時のある一つの差異を最小化」(178頁)することによって(「共通の人間性」ではなく)「千ものこまごまとした縫い目で縫い合わせていく(という希望)」(同上)である。

ホッブズ、ロック、マルクス、デューイ、ロールズらの〕これらの哲学者はすべて、社会現象にかんする分類法を定式化し、現存の制度を批判するために用いられる概念道具を考案したが、その際に参照したのは、それまでに何が起こったか、そして何が将来起こりうると当然希望されるのか、についての筋書きだったのである。
 しかしながら、近頃われわれが目にしているあまたの政治哲学や社会哲学は、その出発点を歴史物語に取らず、むしろ、言語哲学精神分析から、あるいは、「アイデンティティ」と「差異」、「自己」と「主体」、「真理」と「理性」といった、哲学の伝統に属するトポスをめぐる議論から出発している。このことはわたしには、希望の喪失の――さらに言えば、進歩にかんする説得力のある物語を構築できないことの――帰結であるように思われる。歴史的語りやユートピアの夢から哲学への方向転換は、絶望を示すしぐさであるとわたしには思える。(286−287頁)

 ↑つまり、ローティにとっては、哲学的な概念そのものに抑圧や解放を見出すのではなくて、現実社会の把握を将来に結びつけるような分析(としての「歴史的語り」)こそが、「希望」を見出すということなのだろう。
 ローティと同じ未来を支持するかどうかはともかくとして、ローティ流に言えば、「希望」を語るとは、現在よりも将来の方が何らかの意味でよくなるという議論を自分なりの材料・視点から語ることだ、という風にとらえることはできそうだ。