Habermas1991=2005(2)

引き続き、ハーバーマス『討議倫理』よりメモ。以下の諸個所は、第4章「ローレンス・コールバーグとネオ・アリストテレス主義」より。

カント・タイプの道徳論に対する異論は、以下のようにまとめることができるだろう。道徳の基本現象としての当為の義務論的特徴は、正しいことと善いこと、義務と好みとを抽象的に分離することである。これは、そのつどありうべき動機を捨象することになる。であるから、そもそもわれわれは何故に道徳的に行為すべきなのかという問いには、もはや説得力ある答えを見出すことができない。道徳的判断に関するポスト伝統的な地平での認知主義的特徴は、規範の根拠づけの問題に特別な力点を置いている点である。このことは、そのつど所与の状況を捨象することになる。――そしてまた、規範の適用の問題をなおざりにしてしまうことにもなる。最後に、特殊的なものに対する普遍的なものの優位を説く形式主義的特徴は、人格のアトム主義的概念と契約主義的社会構想と神話的である。これは、地域的な生活形態において具体的な形態をとる慣習を捨象することになる。以上の特徴を組み合わせて考えてみれば、内容と形式を厳密に分離することの可能性、すなわち実生活のコンテクストから独立した正義一般の抗争の可能性は疑わしいものになってくる。(96-97頁)

アリストテレス的な〕賢慮から形而上学的基礎が取り払われるのなら、賢慮は日常知に類似のものになるか、反省知へと彫琢されるものになるかのいずれかでなければなるまい。(99頁)

〔B・ウィリアムズの場合に〕つまり、実践理性は、哲学の理論形成と同じように、道徳的態度の経験的追求には客観的手続きが欠けているとしながらも、にも拘らず実践理性は具体的実践知を手許にとどめておかなければならない……ウィリアムズが避けて通れないことは、ある合理性を実践理性に与えることである。その合理性とは、単純なコモンセンスを越え出てはいるが、科学的合理性とは違うことが規定されなければならないような合理〔性〕のことである。(99頁)

このような実践知は、確かにそのつどわれわれ生活世界の内的パースペクティヴから得られるものではあるが、しかしその地平を越え出て行くこともありうる。それぞれの生活世界の地平は可動的なものである。すなわち、その境界には透過性がある。どんな絶対的限界といえども「できる限り広範囲な間主観的合意への願い」と対立することはない。われわれがラディカルに他者に対して自分を開けば開くほど、あるいはわれわれの地域限定的な知や自民族中心的なものの見方などの限界を越え出ようとすればするほど、いやそれどころか、われわれの共同体を潜在的に拡げて、最後にはわれわれの討議に言語能力と行為能力を備えたあらゆる諸主体を包みこもうとすればするほど、実践知はそれだけより一層合理性を要求されるようになるだろう。……ラディカルに「われわれ」という言葉の適用範囲を可能な限り広くひろげようとするローティのプラグマティックな要求を充分に満足させようとするなら、「われわれ」が合意できることは、万人の合意の可能性ということである。それぞれの個々の集団が隠喩的な意味だけではなく、その集団にとって何が善なのかを「知る」ことができるというのなら、何故にその実践知が拡げられて、異なる地域間へと拡張されないのか、そしてまた何故にその知が万人にとって等しく善であるものに向かわないのか、と言ったことを理解することは難しい。形而上学的なバックボーンをもたないわれわれが為しうることは、アリストテレスが賢慮と呼んでいたものを、平板なコモン・センスの中に解消させるか、それとも手続き的合理性の尺度を満足させる実践理性の概念にまでそれを拡張させるかのいずれかであらざるをえまい。(太字は引用者)(100-101頁)

これに対して、道徳判断はその地域のエートスと結びついたものだというアリストテレス的確信に忠実にとどまろうとするなら、道徳的普遍主義のもつ解放的内容をあきらめ、潜在的な搾取と抑圧の関係の中に埋め込まれている構造的暴力に対して、道徳的に容赦のない批判を加える覚悟を否定せざるをえないことになる。なぜなら、道徳判断についていえば、ポスト伝統的な地平への移行だけが、懇意な話し合いや慣れ親しんだ習慣的行為の構造的制約からわれわれを解放してくれるからである。(太字は引用者)(101頁)

討議倫理 (叢書・ウニベルシタス)

討議倫理 (叢書・ウニベルシタス)