地図あるいは文化資本

 「地図を読めない」なんとかという本がありましたが、聞いた話だと、世界地図を広げて、「日本はどこ?」と聞いてもわからない高校生もいるとのこと。中国も同じく。「アフリカ」は、「国じゃないの?」。
 うむうむ、ひとまず実態としてはありそうな話ですが、上のエントリとは別の意味で、多々思うところがあります。
 ちなみに、うちの長男は、トイレの地図で、少なくとも、日本、アメリカ、ブラジル、インド、中国、南アフリカ、ロシア、イギリス、インド、オーストラリアあたりは、わかるようになってきているのですが、妻によると、先日、以下のようなやり取りがあったとか。


妻:サンタさんはフィンランドにいるんだよ。
長男:フィンランドはどこ?
妻:フィンランドは北のほうだね。
長男:(探索中)…あった。フィンランドはロシアの隣だから寒いね。


 ううむ、「ロシア=寒い」という知識を、「ロシアの隣はフィンランド」という知識と結びつけ、「ロシアの隣だから寒い」という知見を導き出すとは。我が子ながら、あっぱれ(違)。
まあ、親バカということでお許しくださいm(_ _)m
 でも、あくまで実感ベースの話で、しかも地図ごときの話で、なおかつ、ウチの子どもが今後どうなるかはわからないということを前提としてですが、物心ついたときから地図を見る環境とそうでない環境とでは、確かに、蓄積された「文化資本」が異なるように思われます。もちろん、資本をもっている者のあいだで、その資本を有効活用できるかどうかという問題があるわけですが、文化資本の有無というレベルでは確かに差異はあるよなあ、と。