読書

 この前買った下記の本から、佐藤俊樹「閉じえぬ言及の環:意味と社会システム」を読んでみました。

「社会」への知/現代社会学の理論と方法〈上〉理論知の現在

「社会」への知/現代社会学の理論と方法〈上〉理論知の現在

 素人なので(言い訳)、ちゃんと理解できているつもりはないのですが、佐藤さんの主張の一つは、「ルーマンの理論は『システム』(概念)そのものを定義または説明することに成功していない」ということでしょうか。

要するに、行為―コミュニケーションは行為―コミュニケーションによって行為―コミュニケーションたりうる。その意味で行為―コミュニケーションの産出はautopoieticだが、それは「行為―コミュニケーションがある」ということにつきている。「システムである」とさらにつけくわえる必然性はない。(115頁)

実際、ルーマンの議論では、全体社会の同一性は「全ての」とか「コミュニカティヴな到達不可能性」(Luhmann 1997: 866)といった彼個人の超越論的な定義に依存している。同一性をたてる操作は経験的に同定されておらず、むしろ超越論的視点をもちこむことで、あたかも「システムである」ように見えているのである。(116-117頁)

 ただし、もう一つ、(安直にどこかで「社会」を自明視してしまう学者が多い中で)ルーマンほど「社会」の確定しがたさを示した理論家もいないのだ、ということもあります。
 
 ところで、佐藤さんの下記の本は、「経験的な水準での批判を実際にやってみせ」た例(117頁)のようなのです。

桜が創った「日本」―ソメイヨシノ 起源への旅 (岩波新書)

桜が創った「日本」―ソメイヨシノ 起源への旅 (岩波新書)

 「なぜ桜?」との興味だけで買ったまま積読になっている本ですが、読んでみますか。

 
 素人なので(また!)、ひとまず以上で、ということでm(_ _)m。