この前買った下記の本から、佐藤俊樹「閉じえぬ言及の環:意味と社会システム」を読んでみました。
- 作者: 盛山和夫,野宮大志郎,土場学,織田輝哉
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2005/08
- メディア: 単行本
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要するに、行為―コミュニケーションは行為―コミュニケーションによって行為―コミュニケーションたりうる。その意味で行為―コミュニケーションの産出はautopoieticだが、それは「行為―コミュニケーションがある」ということにつきている。「システムである」とさらにつけくわえる必然性はない。(115頁)
実際、ルーマンの議論では、全体社会の同一性は「全ての」とか「コミュニカティヴな到達不可能性」(Luhmann 1997: 866)といった彼個人の超越論的な定義に依存している。同一性をたてる操作は経験的に同定されておらず、むしろ超越論的視点をもちこむことで、あたかも「システムである」ように見えているのである。(116-117頁)
ただし、もう一つ、(安直にどこかで「社会」を自明視してしまう学者が多い中で)ルーマンほど「社会」の確定しがたさを示した理論家もいないのだ、ということもあります。
ところで、佐藤さんの下記の本は、「経験的な水準での批判を実際にやってみせ」た例(117頁)のようなのです。
- 作者: 佐藤俊樹
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/02/18
- メディア: 新書
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素人なので(また!)、ひとまず以上で、ということでm(_ _)m。