福祉国家におけるシティズンシップのあり方についてのメモ

  • 1970年代まで

  ・市民=男性稼ぎ手
  ・各レジーム共通

  • 1970年代後半〜80年代(or90年代初頭?)

・リベラル、社民:程度の差こそあれ、市民=「普遍的稼ぎ手」(Fraser)あるいは「成年労働者」(Lewis)への移行が進む
・保守:市民=「男性稼ぎ手」で次第に行き詰まる。改革の方向としては、市民=普遍的稼ぎ手?成功したかどうかはともかく

  • 1990年代(特に中盤)以降〜

・社民レジームにおいて、市民=「労働者/ケア提供者」の方向性。
フェミニスト福祉国家研究における市民=「労働者/ケア提供者」への焦点。
・問題:「アクティベーション」としての就労支援政策との関係
→「労働者/ケア提供者」の方向は「アクティベーション」と一致すると言えるのか?
=「アクティベーション」における市民像は「労働者/ケア提供者」なのかどうか?
・リベラルレジーム系の「ワークフェア」はどう捉えられるか?
→「男性稼ぎ手」から「成年労働者」への変容を強力にpushする政策? 
=「ワークフェア」における市民像は「普遍的稼ぎ手」「成年労働者」でよいか?
デンマークやオランダの動きが「アクティベーション」だとしたら、「労働者/ケア提供者」の方向を目指しているといえるのか?
→なんとなく違うような気がする…
・保守レジームはどこに行こうとしているのか?
→遅ればせの「男性稼ぎ手」から「普遍的稼ぎ手」への移行、というのがオーソドクスな理解だろう
→日本の細々とした「男性に育児を」の取り組みは、異なるトレンド=「労働者/ケア提供者」路線と言えるか? 

  • 1990年代以降の論点

→シティズンシップの新しい境界線の問題
・よく言われるのは、トランスナショナルなシティズンシップや「外国人」の問題
→シティズンシップとナショナルアイデンティティは重なるか(Habermas)問題
→ナショナルなシティズンシップ外部の「他者」の包摂問題
・もう一つの「他者」の包摂問題
→ナショナル内部の「他者」
→ナショナルな「われわれ市民」には(の常識・規範では)「理解できない」が言語その他の生活上は限りなく「ネイション」的である人たち
・「脱社会化」(宮台)、「制度の他者」(北田)
・「ひきこもり」(?)
・働かない/働けない/働こうとしない人たち
→これら「理解できない他者」たち(数土)は「シティズンシップ」の枠内に入るのか?
       ↓
・ポイント:これらは、「男性稼ぎ手」でも「普遍的稼ぎ手」でも「労働者/ケア提供者」でもない
→稼ぎ手でも、ケア提供者でなくても、なおかつ「シティズン」と呼び得るか?
=従来のシティズンシップの基準には当てはまらなくても、なおかつそれを「他者」として排除することのないような「来るべき」(?)「シティズンシップ」は構想できるのか?
ベーシックインカムの下でのシティズンシップ
→就労もケア提供も与件としない、という意味で20世紀のあらゆる福祉国家におけるシティズンシップとも異なる
→シティズンシップは常に一定範囲のコミュニティの構成員資格の問題であり、言い換えれば「誰を他者と認定するか?」という問題であるが、「いかなる意味においても働かない・活動しない」人々をも「シティズン」として資格認定するという意味で、(あらゆる類型の?)20世紀的(福祉国家的)な「シティズン」とは異なる。