Zelleke 2008

Almaz Zelleke, "Institutionalizing the Universal Caretaker Through a Basic Income?," Basic Income Studies, Vol. 3, No. 3, 2008.


 ナンシー・フレイザーのuniversal breadwinner, caregiver Paritym universal caretakerの類型に沿って、ベーシック・インカムがuniversal caretakerモデルの実現に寄与すると主張する論文。
全体の論旨は明快。
 universal breadwinnerモデルは、女性の経済的地位を向上させることによって男性に対するバーゲニング・パワーを向上させるが、ケアワークの地位を向上させない。また、男性にとってそれをより魅力的なものにするための手がかりを持たない。
 caregiver parityモデルのアイデアに沿う「ケア提供者所得」は、ケアを行うことと就業することとを「選択」の対象にすることによって、ケアを「個人的な、『選択された』責任」とする見解を定着させ、「誰かが担うべき強制的な活動」、あるいはもっと言えば、「誰もが参加すべき普遍的な責任」 と見なすこと
をできなくしてしまう。そして、結局のところ、ケア提供者は、「二級」の市民となってしまう。
 これらに対して、ベーシック・インカムは、もっとも普遍的ケア提供者モデル実現に寄与する。というのも、BIの下では、「所得を受け取るために、誰も『労働者』であることと『ケア提供者』であることとの間で選択する必要がない〔無条件なので〕」がゆえに、BIは、ケアと雇用の提供のための男女間の関係を転換するポテンシャルを持つからである。
 確かに、BIは、男性がケアに関わることを保証はしないが、しかし、そうする「コスト」を低下させる。
 というわけで、BIだけが、「すべての市民が有償労働の外部で責任と義務を持つことを認識している」という話。


 BIが有償労働と無償労働の間で「選択」を迫らないがゆえに無償労働の責任を「すべての」市民に課す、というのは、少々トリッキーに見えるかもしれない。まあ、実際、「義務」とまで言えるかどうかは、BIの無条件性から言って、疑問ではある。「コストを下げる」は、そうだろうと思うけど。
 ただし、Zellekeが言いたいことは、次のようなことだろう。つまり、「ケア提供者手当」のようなものは、結局、その下でケア提供者を「選択」した人にはケアの責任があるが、「選択」しなかった人はそうではない、と宣言することになってしまう。そうなると、実際には、たいていの男性はケア提供者を選択しないだろうから(まあ、ここは本当かどうか議論の余地あり)、結局、この制度の下では、女性が「自分の」選択でケア提供者になったということになり、性別分業は変なkしない、ということになる。
 逆に、BIは、無条件であるが故に、誰もがケアを行うべきというメッセージを、少なくとも潜在的可能性としては、含みうる。この潜在的可能性が現実化するかどうかは、(著者自身も言及しているように)他の制度との組み合わせ方、とりわけその際の言説的な意味付けの仕方に、大きく依存することになるのではないか。