「結婚」について、少しだけ考えてみる

 昨日の東京出張は大変でしたが、用件を済ませ、帰りに東京駅の丸ビル付近で、少し買い物し、気分転換になりました。まあ、入った店たちは、店自体は名古屋にもあるものばかりで、どうしても東京で行かねばならないわけではないのですが、名古屋の中心部に自分の買い物をするために行く時間もあまりないので、こういう機会を利用するのもよいかも、と思った次第。でも、ベルトだけでしたね、買ったのは。
 往復の新幹線では、仕事の準備以外に、読売新聞東京本社生活情報部『幸せパレット』勁草書房、2004年を読みました。結婚に関する様々な夫婦や恋人のケースが描かれていて、いろいろ考えさせられました。幸せな話も出てきますが、多くは結婚で苦労した話で、中にはとても胸が痛むものもあります。にもかかわらず、どうして多くの人はやはり最終的には結婚しようと考えるのでしょうか?こんなことを、自分も法的には事実婚ながら、実態的には「結婚」のような生活をおくっていながら、言うのもなんなのですが、やっぱりよくわからないというか、結婚イデオロギーの根強さを感じます。あるいは、「結婚によって人生をリセットしたい」、どうせこのままでいても楽しいわけでも将来に展望があるわけでもないのならば、といった感覚もあるのでしょうか。とくに男女の不平等が根強い日本では女性がこのように考える傾向がある、とどこかで読んだような気もしますが、何となく納得できます。
 フェミニズムの中に結婚を根本的に否定する議論があるのは知っていますが、僕自身はそこまで言うべきかどうかよくわかりません。ただ、結婚にせよ家族にせよ、構成員間の「距離の近さ」に頼りきる関係は長続きしないだろう、と言うことは言えます。こういった関係はしばしば「親密圏」と呼ばれるわけですが、もしその領域を維持しようと思うならば(維持しようと思わないのであれば話は別ですが)、ここでも「距離を取る」という一種の倫理感を持つことが必要になると思います。近すぎる関係性は、他者への過剰な期待とセットであり、それは容易に幻滅や拒否に転化するのではないでしょうか?「親しき仲にも礼儀あり」というと、何だか身も蓋もないのですが、親密圏においても「距離を取る」というエートスは必要であると思います。
 「距離を取る」といえば、今日の大学院ゼミで読んだヴィラ『政治・哲学・恐怖』法政大学出版局、2004年でも、集合性や共通性から距離を取ること(そういう言葉そのものが使われていたわけではないですが)の(アレントにとっての)意義が重視されていたように思いました。それから、スペシャル・ゲストとして参加していただいたMさん、どうもありがとうございました。おかげでとっても勉強になりました。そして、とても長い時間つき合わせてしまって申し訳ありませんでした。