Roseneil and Budgeon 2004

Sasha Roseneil and Shelley Budgeon, "Cultures of Intimacy and Care Beyond 'the Family': Personal Life and Social Change in the Early 21st Century," Current Sociology, Vol. 52, No. 2, 2004, pp. 135-159.


レズビアンやゲイ、シングル・マザー、同棲など従来的な意味での「家族」の範疇に収まらない関係性のありかたが増加していることを、どのように理解するべきなのか。著者たちは、「家族の多元化」というフレームワークでは不十分であると主張する。その理由は、第一に、異性愛の標準性(heteronormativity)という点に変化が見られない点であり、第二に、今日の社会変動の不適切な分析に依拠しているからである(p. 136)。
筆者たちは、レズビアンやゲイの生活から、性的な関係と友人関係のどちらかに単純に当てはまらないような実践が重要になってきていると言う。このことが、親密な関係を性的な関係と夫婦間の関係を特権化して捉える視点からの転換を促すのである(p. 138)。特に、4人の人々へのインタビューから浮かび上がってくるのは、「友人関係の中心化と、性的関係の脱中心化」(p. 146)である。彼らは、家族/友人の二分法に沿って物理的空間を分断する形で自分の生活を組織することを拒否している(p. 150)。


要するに、ケアに関わる形での友人関係を中心にした(だから性愛中心的ではなく、異性愛夫婦中心的でもない)新しい親密な関係が出現しつつある、ということである。ただし、著者たちは、だからこの新たな関係への保障を与える「べき」だ、とか、友人関係こそが親密な関係の核心であると考える「べき」だ、とまでは言っていない(と思う)。僕としては、ケアの問題を考えるときに、「ジェンダー秩序」(江原由美子)としての性別分業の問題を等閑視してはならないとおもっているので、単に、実際に新たな親密な関係が発生→その関係を保障するべき、とは言うべきではないと思っている(これ以外に、「である」と「べし」の周知の問題もあるけれど)。
さしあたりの自分の指針としては、たとえ「友人関係」中心的とカテゴライズされようとも、そこに「政治」はなくならないのであって(「ない」と言ってしまえば、ユートピア的に新たな親密な関係を理想化することになる)、その「政治」を取り出す作業を行う、ということになるだろう。もちろん、その「政治」は支配/暴力だけではない。


以下、個別の興味深い指摘を。
・(恋人や夫婦ではない)他者と一緒に暮らしたり、近い距離になったりすることの決定は、しばしば、ケアの提供と受け取りについての緊急な実際的な関心に関係している(p. 149)。
→これは実感的にもよくわかる。実際、シングルでケアを始めたら、いろいろな他者に助けてもらったり、他者と場面を共有したりすることが増える。


・70〜80年代にオルタナティヴなあるいはフェミニストのコミュニティのコミュニティで追求された、かつては「政治化された戦略」であったライフスタイルが、今では、自らをアクティヴィストとかラディカルズと考えないような人々にまで拡大しているので、親密性とケアの非標準的な文化が存在するようになっている(p. 153)。


ところで、著者の一人のSasha Roseneilという人は、日本の社会学でのこの種の(ポスト)家族論だと、牟田和恵さんとか上野千鶴子さんとかと同じラインの議論をしているのだと思うけど、よく参照される人なのだろうか??