読書

『創文』2009年1-2号所収の、早川誠「語り残されている課題について:民主主義論の余白をめぐる一考察」、森川一輝「不確かな橋の上で:タクシー運転手と政治思想史研究者の間」、上村泰裕「福祉国家の国際比較:何のために比較するのか」を読む。
早川さんの文章は、以前の論文でも少し書かれていたこととは言え、挑発的な(?)問題提起。その一部は、(光栄にも)僕にも向けられているのだろう。僕は熟議民主主義論者が代議制(の意義)について論じていないとは思わないけれど(熟議民主主義者とカテゴライズすると異論はあるかもしれないが、アイリス・ヤングも代表制と差異の問題を論じている)、「代議制にできること」をもっと積極的に論じるべきだ(少なくとも、代議制以外の民主主義と比してバランスが悪い)という点については、そうだろうなと思う。
それでも、「熟議対代議」という構図ではないはずだ、とは言っておくべきだろう。


森川さんのものは、とても強い決意表明なのだけど、それでいて、爽やかな(「お寒い」ではない)風が吹き抜けるような文章だ。安易に「架橋」するのではなくて、安易に作られた「橋」を解体することが思想史研究者の仕事ではないか、という問題提起はよくわかる。(これは真面目に)GLAYの「サヴィルロウ」という曲を思い出した。僕の好きな曲である。
ただ、橋を壊すことだけならば、軍隊にも、いたずら小僧(?)にもできる(ただし、かなり性質の悪いやり方だから、到底思想史研究者の許容できるところではないだろう)。安直ではないやり方で、設計や材料の組み合わせを試行錯誤しながら、場合によっては、途中まで作ったものを中止して新たに検討しなおすことも含めて、新しい橋を架けようとすることも、政治思想(「史」ではない?)の役割ではないだろうか。


上村さんの文章は、比較研究についての独自の問題提起。比較の4つの意義についての考察はとても面白い。ただ、「因果解明」型の比較が「選択肢拡大」型の比較にどのようにつながってくるのかについては、もっと論じてほしい気がした。というか、それはそうだと思うのだけど、前者を後者につなげるには、比較の方法論以外の要素が伴っていることが必要なのではないかという気がする。
ちょっとうまく言えないけど、ひとまずこのへんで。