田口富久治『多元的社会主義の政治像――多元主義と民主集中制の研究』(青木書店、1982年)。第2章「民主集中制の政治学」まで読了。ちょうど半分くらいのところ。
多元的社会主義の政治像―多元主義と民主集中制の研究 (青木現代叢書)
- 作者: 田口富久治
- 出版社/メーカー: 青木書店
- 発売日: 1982/09
- メディア: 単行本
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ただ、僕が今までのところで最も興味深く思ったのは、1章で、田口先生の『前衛』掲載論文(「多元主義的社会主義と前衛党組織論」)からの長大な引用箇所(ということで間違いないと思うけれど、今、論文の方を確認できない)で、「対話的、弁証法的多元主義を保障する諸条件」(43頁)の一つとして、次のように述べられている箇所である。ちょっと長いけれど。
第一に、共通の目標の達成のために参加する諸利益や諸集団が、アプリオリに、あるいは権利の問題として、自らの見解のみが、倫理的にも認識的にも絶対的に正しいと主張し、逆に他の諸見解は「正しい認識」をなしえないという想定に立つことは止めなければならないだろう。大文字の「真理」を体現するものと、「正しい認識をなしえないもの」とアプリオリに見なされているものとのあいだには、フラットな立場での対話は成り立たないであろう。むしろ、自らの思想の真理性を深く確信する集団ほど、他の思想、他の見解のなかに、一面的ではあっても、一定の状況においてはみのり多い成果を生み出してきたという側面、また少なくともそういう可能性を持っていることを承認すべきではないのか。このような前提においてはじめて、異なる立場の間での「対話」・理論的対決が開始されるのであり、その結果として、一方の見解の認識的意味での正しさ、他方の見解の誤りが証明されることもあろうし、両者の見解の部分的正しさと部分的誤りが発見されて、より高次の共同の認識に達することもあろうが、そのいずれの場合であろうとも、個々の参加者および参加者全体の認識が豊かにされることになるであろう。(イタリックは原文では傍点)(44頁)
ここで述べられていることを今日風に言えばつまり、「熟議民主主義に基づく統一戦線の形成を」ということになるだろう。「対話」を強調することは、多元性/複数性を擁護すること、「集中」ではなく「民主」の要素にコミットすることと、結びついていたのだった。
熟議/対話というと、しばしば、多数者(なり「強者」なり)の意見への同一化、その意味での「合意」志向という風に理解されることがある。ただ、アプリオリな多数者の意見への収斂が起こるとすれば、それは、熟議/対話が成立していないからそうなると考えるべきである。「自らの見解が絶対に正しい」と信じる人々が「多数者」の場合には、話し合いをしても、そのような多数者の意見へのどうい調達の場となる可能性が高い。しかし、それは、「熟議/対話を行うとそうなる」のではなく、「熟議/対話が欠けているからそうなる」のである。
ちょっと我田引水な話になってしまったけれど、とりあえず、僕は、田口先生の「多元的社会主義」をめぐる2冊の本を、興味深く読んでいる。