教訓?

 あらかじめ申し上げておきますが、以下の話は、「フィクション」です。「教訓」を引き出すための「寓話」です。イソップやアンデルセンのたぐいです。もっとも、僕は童話作家ではありませんので、「センス」はあまりよくないかもしれません。
 なお、教訓を得ようとしている対象は、最近のconstitutionがらみの問題ではありません。誤解のありませぬよう、切にお願い申し上げますm(_ _)m


 むかしむかし、軍事同盟を結んで遠方に足がかりを作り、近隣では「近隣諸国の共存共栄の空間」を謳って、南に西に北にと、主観的には「進出」を行った国がありました。その国の行動は、「侵略しよう」などという自発的な意志に基づくものだけではありませんでした。恐らく、その国の指導者たちは、「そうせざるを得ないcan't help doing」と考えていたのです。当初「不拡大方針」を表明しつつも「拡大」路線に突き進んでしまったのも、「そうせざるを得なかった」からです。決して、強く勇ましく望んだわけではなかったのです。
 それが証拠に、その国の指導者たちの多くは、戦後、「私には責任がなかった」と言い、ある有名な政治学者によって、その国の同盟国の指導者の「確信犯」ぶりと比して、「なんと主体性の欠落したことか」と批判されたのでした。
 ところで、この「せざるを得ない」路線のせいかどうかは断定できませんが、その国の「共存共栄の空間」作りは失敗に終わりました。
 第一に、もともと「国力」がなかったことはその一因でしょう。その国の敵国であった某国は、その国との戦争に入る以前から既に最新型の高性能爆弾の開発を決定していました。しかし、そもそもその爆弾がなくとも、生産力の違いは圧倒的なものでした。恐らく、その敵国の場合は、仮に決戦の海戦で4隻の主力空母が撃沈されたとしても、その何倍もの数の空母をすぐさま建造したことでしょう。もちろん、その国も、初期には世界に誇る高性能の戦闘機と世界最大級の超ド級戦艦を要していました。しかし、すぐさま敵国はそれを上回る性能の戦闘機を次々開発し、その結果、超ド級戦艦もその性能を発揮する場を失っていきました。「初期には高性能」と書きましたが、その国の歩兵用銃器や陸上用の兵器は、当初からお粗末であり、当然、戦争が終わるまでそうでした。
 第二に、その国は、その国の人たちを大切にしませんでした。「高性能」戦闘機は、確かに俊敏性と旋回能力には秀でていたかもしれませんが、防御能力は恐ろしく貧困でした。いや、そもそも、「迎撃された時は死あるのみ」ということだったのかもしれません。生きて恥をさらすわけにはいかないのです。その国を含む地方の隅々まで兵力を展開したのはよいのですが、その展開は最初から「点と線」であった上に、「補給」「後方支援」という発想も希薄でした。補給のないままに、南方でも西方でも、孤立した現地の兵士たちが泥沼の戦闘を行い、そして壊滅しました。恐らく、司令部は、「何とかせよ!(気合で)。ここで後戻りするわけには行かない」ということだったのでしょう。常識的に考えれば、企画を実施に移す時には、それがどういう結果・効果をもたらすのか、という将来展望のことをしっかりと見定めてから行うのが当然でしょう。合理的な指導者であれば、「展望」のない提案はリスクが大きすぎるため、却下するはずです。もちろん、「やれば何とかなる」といった程度で話を進めるわけにはいきません。しかし、その国には、そういう意味での「合理性」は存在しなかったのでしょう。ここで「なんと無茶なことを」と思っていはいけません。なにしろ、その国には、神の護りがついているということでしたから、司令部が言うことにも一理あったのでしょう。しかし、結果は結果です。「神」は降臨しませんでした。
 そして、第三に、「人を大切にしない」といえば、非戦闘員の人々の暮らしは、すっかり窮乏し、モラル・ハザードに陥っていました。特に都市部では、その日の食べ物にも困るほどでしたが、「この国の人間ならば、贅沢はできないはずだ」などと国から断言されては、「普通のご飯が食べたい」という今日では至極「常識的な」要求でさえ、口には出せなかったことでしょう。そもそも、口に出そうものならば、下手をすると、お縄がかかる恐れだってあったのです。そういう状況の中で、みな表向きは「お国のために」とがんばっているかのような言動をとりました。当然のことです。しかし、裏では、倦怠感や物資の横流しが横行していたというウワサです。モラル・ハザードの発生です。それもまた当然のことでしょう。誰だって、場合によっては「全身全霊を傾けて」取り組みたいことはあるはずです。場合によっては、自らの死を賭することだって、あり得るでしょう。しかし、それには、自分が納得できる理由が必要なのです。理不尽だと思っているところで、全身全霊を傾けることなどできないのです。
 
 さて、いかがだったでしょうか。このフィクションから、僕としては、合理的な展望なく「can't help doing」だけで物事を進めてはロクなことにならないし、ヒトを大事にしない集合体はその活力を殺ぐことになる、という教訓を得たいと思います。
 再度断っておきますが、constitutionがらみの話をしているのでは決してありませんので、念のため。
 それでは失礼いたします。