ポジティブ・アクション

 昨日の研究会は、ポジティブ・アクションについてでした。これはなかなか難しい問題です。
 たとえば、典型的には企業や大学などで採用人事を行うときに、「女性は採らない」と明言するところは少なくなってきていると思います(と信じたい)。で、女性があまり採用されない理由として、「我々は女性でも優秀な人は採りたいと思っている。しかし、そもそも女性の(優秀な)人材が少ない。したがって、女性の採用が少なくならざるを得ないのだ。」といったようなことが挙げられがちだと思うのです。こういう時に、「でも、女性の優秀な人材が少ないのは、これまで女性に採用の道が制度的・社会通念的にあまり開かれていなかったからです。だから、そこを開くために、女性をポジティブ・アクションである程度優先的に採用することも、女性の優秀な人材を増やすために必要ではないですか?」と言った場合、受け入れられるかどうか、微妙なところです。おそらく、「いや、そのようにすることは今の優秀な人を採るという採用水準を下げることになる。そうすると、採用する人材のレベルが下がる。したがって、ポジティブ・アクションは認められない。」という答えが返ってくるでしょう。
 もっとも、この場合、「同等ならば女性を採用」ならば受け入れ可、ということになるかもしれません。これは、これまでは「同等ならば男性」だったことを前提とし、そうだとすればそのように明言するだけでも何らかの効果はある、と考えていることになります。でも、穏健と言えば穏健で、そもそも女性の人材が少ない場合に、どれほど意味があるのか、ということになるかもしれません。
 理論的には、ポジティブ・アクションは、例の「機会の平等」なのか、「結果の平等」なのか、という問題もあります。最近の流れでは、「結果の平等」は評判が悪いので、ポジティブ・アクションも「機会の平等」として正当化しようという流れが強いと思います。しかし、どういう状態を「ちゃんと機会が提供されている状態」「機会の平等」とみなすのか、あるいはそもそも「結果」とは何か、その判断基準の問題は常につきまといます。たとえば、女性に採用枠を提供する(クォータ)のは、仕事をし能力を発揮する「機会」を提供していることになるのか、それとも「就職」という「結果」を保障していることになるのか、考えてみると少なくとも僕にはよくわかりません。
 今のところまとまった話になっていませんが、これから(も)考えていかねばなりません。