自分の原点を見失わないように

昨日、塩原良和さんから、『共に生きる――多民族・多文化社会における対話』弘文堂、2012年、を頂きました。

共に生きる-多民族・多文化社会における対話 (現代社会学ライブラリー3)

共に生きる-多民族・多文化社会における対話 (現代社会学ライブラリー3)

僕がオーストラリア滞在中に、調査でいらっしゃった塩原さんと何度かお会いする機会があり、いろいろとお話をすることができました。その関係で、塩原さんのご著書も、読む機会がありました。
お会いした時、あるいは、ご本で、塩原さんは、多文化主義における対話の重要性についておっしゃっていたのですが、今回の本は、まさにその点を展開したものになっています。
そして、この本で書かれている対話のイメージが、僕にとっては、自分自身を省みるよい機会を与えてくれたように思っています。僕自身、熟議民主主義に注目してきたのですが、最近、熟議民主主義の理解の仕方、それを論じる文脈などに、自分で少し迷いまたは混乱が生じてきているように感じていました。
いったい、自分は熟議民主主義を通じて何を言いたかったのか、この概念のどこに魅力を感じているのか、別の言い方をすれば、何を言いたいわけではないのか、こういったことを、考え直すことができたように思います。
いえ、「できた」というと、塩原さんの本を全部読んだように見えますが、実はまだそうではなく、一部(特に最後の方)を読んだだけなのですが。


また、そのことと恐らく関係しているのですが、上記のようなことを妻に話していると、彼女から、最近僕は、ニュースなどを見ている時、あるいは政治に関することを2人で話題にしている時、妙に断定的な口調の時(彼女は「上から目線」と言いましたが)が多い、と言われました。というのは、きっと僕は、特に帰国してから、日本の現在の状況について熟議民主主義的な観点から発言を求められることが多くなっていて(といっても、そのことで追われまくるほど頻繁にあるわけではないのですが)、そのことでちょっと気負っているところがあったのではないかと思うです。また、「現在、比較的一般的に流通している『熟議』のイメージにそれなりに合わせた形で発言しなければ」と思っていたところもあるように思います。
まあそのようなことが起こるのは、やむを得ないですし、また、そういう消極的なことだけではなく、そこから得られるものもあるとは思うのです。でも、自分が本当に言いたいこと(あるいは、自分が本当に議論したい水準)は、そこからちょっとずれている、多分、そういうことなのです。
とまあ、そんなことを考え、自分自身を省みたことで、少し気持ちが整理できたように思っています。これまた最近、拙著『熟議の理由』を見直す機会が時々あります。そこで思うのは、僕が熟議民主主義について言いたかったことの基本的なことはそこに書いてあるのではないか、ということです。もちろん、「全部」書いてあるのであれば、それ以上何も論じる必要はなくなってしまいます。それでは研究者として失格でしょう。そうではなく、ここに書いてあることを、これを書いていた時に考えていたことを、見失わないようにしよう、ということです。
 原点に立ち返りつつ、そこで自分自身をリフレクトして、新たな場所を目指して進んでいく。そのような姿勢で行きたいと思っています。