科学と問題解決


根岸 毅「最終講義 政治学はどのような学問か?」『法学研究』(慶応大学)第80巻第3号、2007年3月。


いくつかメモ。

自然科学者は〔社会科学者・政治学者のように〕「価値自由」の主張を行なうことがない。その理由は、自然科学では理学と工学の分業が確立しているからである。工学者が扱う対象は価値に関わっているが理学者は価値関心から解放されている、という理解は、自然科学者の間でも、社会一般にも広く受け容れられている。(72頁)

 しかし、実際は、「応用」研究とされる工学で活用されているのは、理学が手に入れた知見のみではない場合がふつうである。〈中略〉これは、問題解決(工学)は理学で入手された知識のたんなる「応用」に過ぎないとする、従来の「科学についての理解」に誤りもしくは足らないところがあることを示唆している。そして、もし政治学に、社会の期待に応える――社会が求める問題解決の手引きを提供する――必要があるのならば、科学および学問についての新しい見方が必要になる。(74頁)

ところで、ここに述べた説明の過程を詳細にながめてみると、それが二つの要素から成っていることが分かる。その一は、当該事物の生起のメカニズム一般を記述している法則を「入手」する局面であり、その二は、その法則を「活用」してその事物の生起の原因を特定する局面である。〈改行〉説明の過程を以上のように二つの局面に分けてみると、つぎの点が明らかになる。すなわち、「説明」は、論理的にいえば、第一の局面で入手した法則の活用目的の「一つ」に過ぎず、そこに「他の」活用目的が入ってもおかしくないことになる。事実、他の目的として「問題解決」をあげることができる。〈改行〉これまで、科学と説明とは同一視され、(いいかえれば、説明は法則活用の唯一の目的であると誤解され)したがって(中略)方法論の議論上、問題解決に説明と同等の重さの身分が与えられることはなかった。その結果生じたのが、すでに指摘した、「工学は理学のたんなる応用に過ぎない」とする理解と、科学志向の政治学にみられた社会問題の解決への手引きの提供に対する無関心であった。(75−76頁)

すなわち、〔理学と工学の〕両者の違いは問とそれに答えを出すやり方そのものではなく、問を発する動機(中略)にあるということである。〈改行〉 理学が求めるものは、一定の状態を生起させるもの(中略)の特定である。理学に携わるものがそのような関心をもつのは、その知的作業自体の面白さ(中略)の故である。これに対して、工学は、一定の状態の生起が「望ましい」状態の生起を妨げていると捉え(中略)前者の状態を生起させたもの(中略)を特定するに留まらず、後者の望ましい状態を実現するために必要な方策の提示を試みる。(78−79頁)

 「問題解決」とは、不都合と評価されるある状態を除去し、望ましいと評価される別の状態を生起させることをいう。これは、「不都合が除去された状態を、被説明変数が特定の値をとった状態として記述できる法則」の活用によってのみ可能となる。すなわち、その法則の被説明変数が「望ましい」とされる状態(目的状態)に対応する値をとった場合の説明変数の値を特定し、説明変数がその値をとる状態を実際に生起させることで、結果として目的状態を実現するというのが問題解決の作業の論理構造である。(79頁)

 「工学」の特徴は、それが取り扱う法則の被説明変数の値の変化がなんらかの価値の高低と対応付けられていると言う点である。また、この点を要として、工学は、「科学」としての事実分析と「哲学」としての価値の考察を結び付けている。(79頁)