頂いていた森川輝一「途方に暮れる――アーレントのカフカをめぐって」『理想』第690号、2013年3月、を読む。
- 出版社/メーカー: 理想社
- 発売日: 2013/03/01
- メディア: 単行本
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でも、もしそうだとすれば、二節の最後で書かれているカフカとディーネセンとの対比は、やや読者をミスリードするもののように思われます。アーレントの読解するカフカには、ディーネセンとは異なる特徴とともに共通する特徴も見出すことができる、その意味で両義的なのである、といった形でその後に続けた方がよかったのではないでしょうか。
と、書いてはみたものの、自分の教養と読解に今一歩自信がありません。ですから、妥当ではないことを言っているかもしれない、ということを述べておきます。
もう一つ、同誌に所収の小玉重夫「ハンナ・アレントとベーシックインカム:脱冷戦的思考の方へ」も以前に少し読んでいたのですが、再読しました。ベーシックインカムの意義を「政治的人間」の再興にも求めよう、という趣旨ですが、議論の中で「政治的」という言葉が二つの意味で用いられていて、その結果「政治的人間」ということの意味もやや曖昧になっているのではないか、という気がしました。
というのは、こういうことです。小玉先生は、「余暇と自由時間」を(アガンベン、ランシエール、アレント的に)「退きこもり」を可能にする時間と解釈し、それが「単に生きることと結びついたすべての活動力を意識的に『抑制すること』」(58頁)をもって「余暇の政治性」「退きこもりの政治性」(55頁)と捉えています。そして、この「余暇の政治性」は、ネグリ/ハートのように「オルタナティヴ」構成(別の表現では「社会とつながる自由」57頁)のためのものでなければならないのではなく、まさに「社会から退きこもる自由」(57頁)として捉えるべきだとされています。
しかし、現代社会における問題は、このような意味での「退きこもりの政治性」が、「政治的人間」という意味での「政治」への関与につながるかどうかはわからない、ということではないでしょうか。もちろん、小玉先生も、余暇の捉え直しは、「政治を再興していくうえで重要な条件」(55頁)だと述べています。つまり、あくまで「条件」なのだということです。
しかし、ベーシックインカム論を政治関与に結び付けようとする議論の難しいところはまさにこの点、すなわち、ベーシックインカムを通じた「条件」の創出が必然的に政治関与に結び付くわけではない、というところにあると思います。ベーシックインカムは「サーファー」を生むだけだ、といった批判は、まさにこの点を問題にしているわけです。その時に、労働へのアンチテーゼという意味での「余暇の政治性」を、公的領域における「政治」への関与の可能性へと接続しようとするならば、もう少し両者の媒介について慎重な議論を提供する必要があるように思います。