読書

1)S. Krause, Civil Passions, Princeton UP, 2008.

Civil Passions: Moral Sentiment and Democratic Deliberation

Civil Passions: Moral Sentiment and Democratic Deliberation

どうにかイントロを読み終わったところだけど、これは重要になりそう(目下のお仕事の一つにとって)。要するに、理性と情念をきちんと結びつけよう、という話。「不可避性』が強調されているところも、僕好みだろうか。文章自体が好みなのかどうかは、微妙だけど(読み進まないので、多分、それほど「好み」じゃないんだろう)。
 問題は、諸単語の「感じ」(笑→いや、affectがキーワードなので)が、今一歩ピンと来ないところ。勉強不足のせいか、英語感覚の欠如のせいか。


ところで、この著者の名前は、「クラウゼ」でいいんでしょうか?それとも、eがあるけど「クラウス」?英語で「ゼ」とは言わないか。


2)広田照幸『教育学』岩波書店、2009年。
今日、何冊かの本と一緒に届いていたのを、早速、読了。

教育学 (ヒューマニティーズ)

教育学 (ヒューマニティーズ)

面白かった。
 「実践的教育学」と「教育科学」との関係の話は、そのまま政治学にも当てはまると思う。どちらもきちんと知った上で……と言うは易く行うは難いわけですが、でも、そういう人が出てくるべきなんでしょうね。
 方法論にこだわった実証的な研究をやりながら、ロールズとかハーバーマスとかアレントとか(の一部)も読んでいるとか、政治哲学・思想をやりながら、計量あるいはゲーム理論(のどちらか)もちゃんとわかっているとか。
 もっとも、たんに「わかっている」だけでなくて(そのレベルに達することのできない僕が言う資格はないのだが)、その「わかっている」ことを、シニカルではない方向で用いることができなくては意味がないだろう。「わかった」上で「やっぱりアレはダメだ」ということもできるし、得た(異分野の)知識を自分の分野を批判するためだけに使うこともできる。でも、どちらも、もしかしたら有益かもしれないが、面白くはないだろう。
 たとえば、著者は、「教育の科学的研究を標榜する者」の「失策」として三つのことを挙げているが(43-44頁)、「失策」というよりは、規範論と科学との「不幸な結婚」(たとえばよいかどうは措いて)的なものとしてありうるのは、「規範論で言われているようなことは、実証できなかった」というタイプの経験的な研究だろう。たとえ厳密な方法論に基づいた研究の成果であったとしても、結論としては、「規範論はいい加減なことを言っている(だから真面目に参照するには値しない)」というところに落ち着いてしまう。
 他方、規範論の中には、経験的な研究を単なる現状の「記述」「説明」であって物足りない、などと評価する場合がある。この場合も、しばしば、「記述」や「説明」は「現状肯定」だ(だから、よくない)、という眼差しが入り込んでいるのであって、その結果、「「記述」や「説明」そのものは意味がない」といった認識に落ち着いてしまう。
 いや、必ずそうなるといっているのではなくて、要するに、こうしたやり方で、一方が他方を「参照」するとすれば、学問は面白くはならないだろうなということだ。そして、上では、「有益かもしれないが」と書いたけれど、やっぱり、あまり有益でもないような気がする。
 だいぶ本の内容から離れてしまったので、最後に本そのものに戻ると、コンパクトな本だけど、広田先生の「力」がとても込められた本であるような気がする。どこがどうというわけではないのだけど。そういう意味でも、よい本だと思う。