はかどらないがゆえのひとりごと

歳のせいか、単なる怠慢か、研究会は迫っているのに、全然準備ははかどらない。ごろごろしたり、卓球に一喜一憂したり、NARUTOの新刊を読んだりしていて、言えた筋ではないだろうか。だが、それは因果関係を取り違えている。後者は、原因ではなく結果なのだ。
そもそも、2月ごろからまとまった量の原稿を書けていない。と書いて、ほんの序論をちょっと書いたりしたことは思い出したのと、もちろんというべきか、短い書評とかそれよりは長いけどメルマガの原稿とかは書いたのだけど、時間的に余裕のあるはずの時にでさえ、書けていないということ。
元々波のあるタイプではある。某友人が言っていたのでいうと、「隔年で(しか)二ケタ勝利を上げる(あげられない)ピッチャー」タイプなのである。
でも、最近は、自己認識的には、隔年というよりも「三年に一回」的な感じである。「よい」状態にある頻度が減少しているのである。時間に余裕があればたくさん書けるとも限らない。そういうときもあるけど、余裕があっても書けない時もあるし(この3月)、余裕がなくてもかけるときもある(はずだ)。
この歳で、「トシだトシだ」というと、年配の方々に怒られてしまうのだけど、それでも、やっぱり年齢からくる、身体的だけでなくて、精神的ないし知的衰えも関係ないとは言えないのではないだろうか。
いや、加齢=衰えとするのも短絡であることはわかっている。キチンと頭を鍛えケアを怠らないことによって、「衰え」をそれなりにとどめていくこともできるはずなのだから。自転車だってきちんと手入れすれば、10年でも20年でも乗れるし、歯だって大事にケアすれば老人になってもたくさん残っている。イチローが天才的でいられるのも、その裏での途方もない努力があるからだろう。
そういう意味では、知的能力を衰えさせないための努力が欠けているのである。テキトーに思いついたときに何とかやってしのいできたことの「ツケ」がきているのである。ある先生は、「もう寝ようと思ってから、必ず英語論文一本を読むようにしていた」と言っていた。150キロの速球が投げられなくなったので、新しい変化球をマスターするとか、そういう努力が欠けているのである。よ〜くわかっているのである。