対話・熟議についてのあれこれ

 熟議民主主義などというものを研究しているというと、「対話ですか。結構なことですけど、実際には対話してもダメな場合はたくさんありますよね?(なのに、対話が大切って言うんですか?)」的な質問(批判?)を受けることがあります。
 こういう質問に対して、どのように答えたらよいのでしょうか?


○その1:やや「逆切れ」論法
「じゃあ、対話しないほうがよい、という話ですか?」と、やや「逆切れ」気味に切り返すという戦法です。
 しかし、「そうです」という開き直りとか、「対話以外に、○○なよりうまくいく方法があります」とか返されると、どうしようもないところがあります。


○その2:具体例を挙げる
 「いやいや。あなたがそんなことを言うのは、抽象論だからですよ。実際は、○○という例や××という例など、対話をすることによって、状況が改善したり問題解決に成功した例があるんですよ。」という具合。
 このタイプの応答の前提は、最初のような質問をする人は、たいていの場合、対話=理想論、非対話=現実論、といった二分法を採用している、ということです。で、その前提となる二分法が間違っていますよ、ということを「現実」の例によって示す、ということです。
 実証的な研究者にどんどん取り組んでもらいたいフィールドです。


○その3:類型論(?)
 というか、「いやいや、常に『対話すればうまくいく』とか『対話する方がしないより望ましい』と言っているわけではなく、『特定の』対話を考えているのですよ」といった論法。
 というか、たいていの熟議民主主義論は、厳格であれそうでないのであれ、熟議の手続きとか条件とかについて議論しているわけなので、こういう議論をしているはずといえばはずなのですが…。
 「理性」はそのような区別の基準として持ち出されているわけです。また、再帰性/反省性みたいなものも同じです。
 たとえば、安冨歩先生は、人間間でのメッセージのやり取りを、を「学習」のあるなしによって、「コミュニケーション」と「ハラスメント」とに分けています。「ハラスメント」は、こちらだけ「学習」し、相手は「学習のフリ」をしていることから生成されます。この場合、「学習」のない対話については、端的に「それは『ハラスメント』ですよ
」といえば(分類すれば)よいのです。

生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却 (NHKブックス)

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ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛 (光文社新書)

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(※ちなみに後者の本は、まだ最初の方しか読んでいない。そのうちしっかり勉強すること。)


 以上を踏まえると、熟議民主主義論は、1)対話しないよりはしたほうがよいという価値判断に立っているけれども、2)「理想論」であるとは限らず、3)すべての対話が望ましいとか妥当だとか言っているわけでもない、ということになります。
 う〜ん。当たり前のことを書いているだけのような気もしてきた。。。