お買い物 

 大学に出かけた帰りに、今池のウニタ書店に。

女性学〈Vol.13〉

女性学〈Vol.13〉

↑早速帰りのバスのなかで、岡野八代「『暴力』の主体から『非-暴力』のエイジェンシーへ」を読む。バトラーを参照しつつ、「主体」ではなく「エージェンシー」、あるいは「<わたし>」ではなく「<わたし>に先立つ関係性」と論じることの意味は、よくわかるつもりである。しかし、あえて言えば、下記のような疑問が残る。もっとも、岡野氏の主題は、アフガニスタン爆撃の問題なので、こんなことを言われても困るかもしれないが、読書メモということでお許しを。
 それはつまり、「<わたし>に先立つ関係性」に出会うことを強制される<わたし>は全く「非主体的」であると言えるのだろうか、という疑問である。あくまで、起点が<わたし>ではなく「他者」ということなのかもしれないが、「強制」される「他者」に向き合うことの「できる」<わたし>は、それを受け止めようとする考えを持つという意味では「主体的な」<わたし>なのではないか?もちろん、ポスト構造主義的な「構成的外部」という話は、知っているつもりではあるが。ただ、これは結局「主体」の要素を何に求めるかという話で、判断力とか反省能力を持つことと、他者との関係性のなかにあることとは、必然的に相反するわけではないのかもしれない、というか、そういう風に考えてみたいとは思っている。
 ともあれ、岡野さんの書くものは、いつも、いろいろと考えるツボを刺激してくれる。なかなか読むのは大変ですけどね。
 あと、妙木 忍「ライフコースの多様化が生み出す女性間比較:『アグネス論争』の言説分析」も読む。アグネスの「子連れ出勤」への肯定的/否定的の異なる反応は、女性が「内面化している性役割規範」に由来する点で共通している(それゆえ、問題はつねに「女性内のあらそい」になる)という指摘は、重要な指摘だと思う。それで、問題は、「男性」も組み込んだかたちで、「子連れ出勤」が論じられるようになるには、どのような条件・仕掛けが必要か、ということかな、と。


未妊―「産む」と決められない (生活人新書)

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モテと純愛は両立するか?

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一身にして二生、一人にして両身―ある政治研究者の戦前と戦後

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 最近考えているのは、思想史的研究を主としながら、(どこかで職場の都合とも書いていたが)社会調査もやり、「思想」というよりは「理論」の研究もやった石田先生のような存在は、もっと評価されてもいいのではないか、ということ(別に、「評価されていない」という意味ではない、念のため)。それは、「片手間」というよりは、いろいろな方法を駆使できるということであって、そういう観点からの戦後政治学の読み直しがあってもいいんではないか、と。