読書

  • 岡野八代「家族からの出発――新しい社会の構想に向けて」牟田和恵編『家族を超える社会学新曜社、2009年。

家族を超える社会学―新たな生の基盤を求めて

家族を超える社会学―新たな生の基盤を求めて

国家「と」家族、公「と」私といった二項対立によって隠されているのは、両者の依存関係であり、さらには、前者が後者のあり方を決定する権力をもつと同時に、後者が前者を支える構造をなしているという事実である。そして、フェミニストたちが既存の二項対立を疑うのは、家族が担う政治的イデオロギー性に対する(政治的で巧妙な)隠蔽によって、いかに国家の期待する主体を形成することに家族が貢献させられているか、という問いが遮断されてしまうからである。(44頁)

しかし、国家制度の一部として公的領域に貢献させられてきた家族「制度」をいったん離れ、前節におけるケアの倫理が実践されてきた家族における営みから、わたしたちは政治国家の暴力性や無責任さを克服しうる原理を見いだしうるのではないだろうか。(53頁)

 本書「序」の「付記」にあるように2007年の家族社会学会報告のリライト版と思われるが、特に後半は最近の岡野さんの論調と重なっている。その本論文後半にもつらなる最近の岡野さんの議論は、「ケア(の倫理)」をベースにして家族の「可能性」を「あえて」取り出そうとする試みとして大変興味深い。
 が、このパースペクティヴから、国家あるいは公式の政治制度をどう捉え直すことができるのか、ということは、やはり気になる。本論文では、アルチュセールの国家論に依拠した国家と社会の関係の理解が出てくるのだが、こうして「抑圧的な執行と介入の力」としての公式の「統一的な国家装置」とその「イデオロギー装置」という概念で国家を捉えておくと、では、かくも強固なそのような国家装置はどのようにして変化し得るのかという疑問が出てきてしまう。仮に「ケアの倫理」をベースにするといっても、その倫理がどのように公式の諸制度に浸透し得るのかについての説明、というか少なくとも公式の制度はそのような倫理の浸透を理論的には許し得るのだ、という構えにしておかないと、議論は一貫しないのではないかという気がしてくる。
 国家による「政治的な」家族の構成が存在するとしても、それを国家に本質的なものとして見てしまうと、オーソドックスなマルクス主義国家論と同じ次元にとどまってしまう。つまり、国家を本質的な暴力装置と見なしたままで、それを「改良」のために利用することは、実践的には可能かもしれないが、理論的には一貫しないだろう。「暴力装置」が何故に「暴力」以外の性質をも持ち得るのか、ということについての、あるいは、もっと言えば、国家=暴力装置という理解でよいのかということについての検討が、もっとなされるべきなのだろう。
 とはいえ、これは批判のためのエントリではなくて、岡野さんが「家族」をフェミニズムとしてだけでなく、政治学の中でも語るための模索を続けられていることは、大変に意義深いことだと思っていて、自分にとってもいつも大いに支えになっているのである(付け足しのエクスキューズではないですよ。念のため)。

  • Att Kwamena Onoma, "The Contradictory Potential of Institutions," in James Mahoney and Kathleen Thelen eds., Explaining Institutional Change, Cambridge UP, 2010.

Explaining Institutional Change: Ambiguity, Agency, and Power

Explaining Institutional Change: Ambiguity, Agency, and Power

 この前買った本の中の一章。既存の制度はアンヴィバレントな性質を持っていて、その持続・強化の効果を示すだけでなく、同時に、「寄生的な人々」が制度の衰退をもたらす可能性も開くと理解することで、制度の内生的な変化のロジックを提供しようとするもの。といっても、外生的な要因を完全に否定しているわけではないところが、実際的というのか、理論的には中途半端というべきなのか。なお、途中は飛ばしている……。
 なんとなくレントシーキング論の修正バージョンのように見えてしまうのだけど、そんなことないかな。
 それはともかく、制度の意味を一義的に見ることはできず、そこに制度変化の可能性を見ることもできる、という話は、他のところでもあって、自分はそういう議論に興味を持っていたのだよなあということを再確認はできたように思う。