認めてもらうこと

 論文を書いたり、本(といっても、ほとんど共著ですが)を出すと、何人かの研究者の方々に、お贈りします。そのうち何人かの方からは、ご返事を頂きます。そして、その中で、褒めていただいたり、励ましていただいたりすることがあります。それはとてもうれしいもので、とくにちょっとへこんでいたりするときなど、「こんな言葉をいただけたから、これであとしばらくがんばることができる」と思うときもあります。
 最近、尊敬するある先生がご自身のブログで、研究者の資質について、「孤独に耐えられること」を挙げていました。どれほど自分が自信満々で論文や本を書いても、予想したほど周囲からの反応はないことが通常であり(ついでに言うと、たまに書評などが出ても、「こき下ろし」の憂き目に会うことが多い、ともその先生はおっしゃっている)、そういう中でもめげずに「自分がよいと思う仕事に一人で打ち込んでいく」ことに耐えるのが研究者なのだ、というわけです。
 僕も、この先生がおっしゃることには一理以上のものがあると思います。自分の研究をどれくらいの人が読んで、かつ、気にかけているのかは、ほとんどわかりません。最近では、チームでのプロジェクトとして研究を進めることが推奨されるようになっているとはいえ、多くの研究者の研究は、結局はその人の考えるところにしたがって行われるものでしょうし、個人的にはそうであるべきと思います(自分のアタマで考えることなくして、何の研究者でしょうか)。
 ただ、そうであるとはいえ、やはり励ましの言葉とか、気にかけていただいていることが窺われる言葉がに出会うことで研究を続けられる、ということも確かであるように思います。「認めてもらう」ことそのものは、確かに受動的な行為です。しかし、「認めてもらっている」からこそ、期待を裏切らないものを書こう、次もがんばろう、という気持ちもわいてきます。一種の受動性があってこそ、能動性も発揮されるものかもしれません。
 僕自身、これまでに、いくつか忘れることのできない励ましやお褒めの言葉を頂いてきました。それが研究を続ける上での貴重な財産になっています。ある方は、研究以外の仕事に悩んでいるときに、「そんなことはたいした問題ではないのだ。あなたの道を進みなさい」と断言してくれました。ある方は、「画期的で、独創的だ」と評してくれました。もちろん、いくらかは割り引いて聞かなければならないことはわかっています。それでも、そうした言葉を、ある程度「真に受ける」ことでここまでやってくることができました。
 願わくば、自分よりも若い人々にも、そうした言葉を贈ることのできる研究者でありたい、と思います。