[[本][仕事]読書

大屋雄裕「情報化社会における自由の命運」『思想』第965号、2004年。


宇野重規リベラリズムと共和主義的自由の再統合:トクヴィルの遺産」『思想』第965号、2004年。


小田川大典「共和主義と自由:スキナー、ペティット、あるいはマジノ線メンタリティ」『岡山大学法学会雑誌』第54巻第4号、2005年。


など、自由主義に関する諸論文を読んだり読み直したりして、いろいろと勉強になる。
 ひとまず、いわゆる「消極的自由」とか、(同じことだが)「干渉の不在」とか、(それとは異なるのだが)「恣意性の排除」とかいうだけでは、「自由」はなかなかうまく擁護できない、ということは、その線で押さえておくということでよいかな、と。
 ただ、問題は、二重の逆説とでも言うべきことだろうか*1。すなわち、もはや「再帰化」という以上に、「動物化」とか「監視社会」とか「アーキテクチャ」とかによって特徴づけられる現在社会においては、「自律」とか、「主体の論理」とか、「徳」とか、「シビリティ」とかが、通例的な「自由」のイメージに逆らって、むしろ必要とされているのだが(第一の逆説)、それにもかかわらず、そういう社会だからこそ、ますますそれらの出所について当てにできそうなものが減少している(だから、やっぱり「自由」は獲得困難でありそうなこと)(第二の逆説)、ということだ。
 いや、そうゆう話で終わりたいわけではないのだが、難しいなあ…。

*1:厳密な意味での「逆説」ではないかもしれないが。とくに、二重目。