昼下がりに、鈴木謙介カーニヴァル化する社会講談社現代新書、の第1章について、「現代の若者は、勤労に際して(比喩的な意味での)不断の『躁鬱状態』に置かれている」(52頁)などという記述を、「ホント、自分もそーだよねえ」などと思いながらナナメ読み。
 その前のページで紹介されている渋谷望氏による、若者たちは、一方で「国や企業に頼るな」といわれつつ、他方でしかし長期的計画を立てることが不可能な状況に置かれる、というダブルバインドなメッセージを送られ、結局、宿命論に陥らざるを得ない、といった指摘にも、「ホント、そーだよねえ」*1と素朴に実感。渋谷氏や酒井隆史氏の議論に全面的に賛成するわけではないのですが、ひとまず素朴に「そーだよねえ」と思っちゃうところもあるよねえ、ということで。

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

 ところで、鈴木氏によると「カーニヴァル」の言葉は、ジグムント・バウマンからの援用らしいです。僕としては、宮台真司さんの議論からヒントを得ているのかと思っていたのですが。
 ただ、なぜか注に文献名が挙げられていないのです。「リキッド・モダニティ」という言葉が出ているので、きっと下記の本かな?前に読んだのですが、「カーニヴァル」についての記述があったかどうか、よく覚えていません。
リキッド・モダニティ―液状化する社会

リキッド・モダニティ―液状化する社会

 パラパラっと見てみましたが、よくわからず。まあ、また今度、点検してみますか。
 で、本題は、その後、近所というにはちょっと遠い小幡緑地公園に、家族みんなで「自転車」で行きました、ということなのです。いつもは、横着してクルマでしか行ったことないのですが、長男が「自転車で行く」と言い張るもので…ま、いい運動になりました(たぶん)。帰りは次男が自転車のいすの上でスヤスヤ眠ってしまい、ちょっと大変でしたけど。

*1:つまり、一方で研究費は「外部資金」獲得で賄え(平等配分に頼るな)といわれつつ、他方でその研究費獲得のために必要な長期的研究計画を立てるような時間的・精神的余裕は与えられず、結局、「今は大学も忙しくなっていて仕方がない」「今の若い人はかわいそうだね」という一言で片付けられる、とゆーこと。そんなこと言われている間に「若い人」じゃなくなってしまうのですが。。。