読書

新左翼の遺産―ニューレフトからポストモダンへ

新左翼の遺産―ニューレフトからポストモダンへ

 ちょうど半分くらい読む。広い意味での新左翼社会運動を分類しつつ、特に狭義の新左翼運動に焦点を当て、50年代〜70年代の日本におけるその展開と(後半では)西欧との比較を行っている。
 中心的な理論的なフレームワークとしては、広義の新左翼運動の類型論ということになるだろうか。大嶽先生が最近強調している「パターン認識型」の分析の変種ということになるのかもしれない。それぞれの類型についての各章の記述は、今のところは基本的には歴史的な展開の記述を中心に、要所要所で学説・理論に基づいた理論的な整理が施される、というパターンだろうか(後半では、思想分析にもなるようだ)。『新自由主義的改革の時代』などと同じような叙述スタイルかもしれない。ただ、運動の展開を説明するフレームワークも欲しいところではある。確かに、特徴的な出来事やエピソードから再構成される歴史的な叙述はそれ自体興味深いが、どうしてそのように展開したのかという説明は不十分なものにならざるを得ないだろう。
 個人的には第4章1の議論が興味深い。ここで、大嶽氏は、ブントなどの新左翼と「新しい市民運動」との違いを、前者における「コミットメント」「〜への自由」「濃密な関係」、後者における「退出」「〜からの自由」「希薄な関係」というかたちで対照的に整理している(もっとも、後者にも、前者と共通する「祝祭性」「連帯の高揚感・興奮」という側面があるとも指摘されているのだが)。そして、後者の運動の特徴は、「今日の時点で考えてみれば、本人たちにはそうした自覚はなかったであろうが、市場における『選択』と原理的に共通するものであり、ネオ・リベラルの行動原理を体現するものでもあった」(105頁)ことを示すものであるという。これは大変論争的な(そういう意味では、大嶽氏らしい)表現だが、しかし、しばしば「新しい社会運動」が「左翼リバタリアン」と特徴づけられてきたことを想起するならば、言わんとするところはよく理解できる。
 もう一つ興味深いのは、日本の近代主義知識人(丸山眞男などが念頭に置かれている)にとって、安保闘争時における「参加」の強調は、「参加それ自体に価値(「権利」)があるというより、やむをえぬ心的義務と考えられている」のであって、「民主主義的である以上に自由主義的発想である」(113-114頁)と述べられている点である。ここに、大嶽氏は、日本の近代主義知識人と、同時代のライト・ミルズなどのアメリカの新左翼知識人との違いを見出している。
 ところで、ある意味でもっとも関心があるのは、どうして大嶽氏がこのテーマで本を書かれたのかという点である。もちろん、氏は、以前から政治学者としてはやや異例な熱意で「社会的権力」に関心を示し、イデオロギー対立を重視してきたのだが、他方では多元主義ないし集団理論の論客として名をはせた人でもある。もうすぐすると、「大嶽秀夫政治学」というタイトルの論文が書かれるようになるのだろうか。
 

【追記】第5章を読んでいたら、労農派的認識と「日本型多元主義論」的立場との関係、大嶽氏の学問のスタイルなどについて、いくつか思うところがあった。でも、とりあえずメモだけ記しておく。