塩原良和『ネオ・リベラリズムの時代の多文化主義――オーストラリアン・マルチカルチュラリズムの変容』(三元社、2005年)を読了。
ネオ・リベラリズムの時代の多文化主義―オーストラリアン・マルチカルチュラリズムの変容
- 作者: 塩原良和
- 出版社/メーカー: 三元社
- 発売日: 2005/11/01
- メディア: 単行本
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特に、反−本質主義によるエスニシティの脱構築が「意図せざる形で」差別・不平等を撤廃するための福祉国家的政策の縮減を指向するネオ・リベラリズムと共鳴してしまうという分析は、本質主義/反−本質主義という軸が、特定の理念的・規範的立場と必然的に結びつくわけではないことを具体的に示したもので、とても興味深い。
ところで、この意図せざる帰結を乗り越えるための著者の処方箋は、最終章で「ハイブリッド性を再生産する本質主義」という形で(暫定的に)提起されている。これはつまり、目的としてのハイブリッド性を実現するために、本質主義を擁護する(マイノリティ文化を保護する政策を実施する)というもの。
いわゆる「戦略的本質主義」との違いが気になるのであるが、著者によると、それは次のように説明される。すなわち、マイノリティサイドからの戦略という観点から「戦略的本質主義」を考えても、結局(「マイノリティに限らない)あらゆるエスニック集団の実践を「戦略的本質主義」として認めざるを得なくなるという限界がある。だから、この観点から考えるのではなく、政府が行う政策の理念という観点から「本質主義」をどのように活かすことができるのかを考えてみる。その場合に、政策の理念を「ハイブリッド性を再生産する本質主義」として捉えるのがよい、というわけである(215-16頁)。
もっとも、個人的には、集団側からの戦略として考えても、同じことは言おうと思えば言えるのではないか、という気もする。つまり、「戦略的本質主義」の「目標」を単に当該集団の「本質主義的な」アイデンティティの維持ではなく、それをベースにしつつ、その変容を目指すものとして捉え直すことも、少なくとも理論的には可能であるように思われた。
それはともかく、オーストラリアにおける「多文化主義」政策の変容を大きな構図の中で描き出すとともに、その中に、反−本質主義の(意図せざる)隘路とその克服という理論的課題も見出す筆者の力量を、よく認識できる著作だったと思う。