団地のこと

「たまに」僕のブログを見ている妻が、「そっちに戻ってから、本当に子どものこと書いてないね」(大意)と言われたからというわけではないのだけど(いや、それはあるけど)、子どもに関わることを少々。
もうすぐ、今住んでいる団地の次男の同級生の男の子がいるご家族が引っ越しだそうだ。次男が特に保育園から2年生の前半くらいまではよく遊んでいた男の子。ときどき、うちにもやってきては「遊ぼう」と言ってくれていた。
妻曰く、次男も「最近、遊ばなくなったけど、でも・・・」みたいな感じで、ちょっと思うところがあるらしい。それはそうだろうな、と思う。とても仲が良かったからね。
僕自身も、そうか、自分は恐らくもう二度とお会いすることはないのだなと思ったら、ちょっと感傷的な気分になった。
団地でも、特に公務員宿舎というのは(と言っても、自分が今住んでいるところは「公務員宿舎」ではなくて大学の建物なのだけれど)、入れ替わりがとても激しい。それは、僕自身も小学生時代に住んでいて、実感レベルでよくわかっている。友人で、親が大学勤めではなく、「普通の公務員」の場合は、たいてい、2〜3年で転勤していった。下手をすると、1年ということもあったと思う。加えて、家を買って、出ていく人もあった。そういうわけで、年度末になると、仲の良い友人たちから必ず誰かはいなくなる、ということを毎年予想していたと思うし、実際、いなくなった。
公務員住宅というのは、というか、賃貸の公営団地というのがそういうものかもしれないが、地縁も血縁もない人たちが集まり、そして、短期間で移動していく、ある意味、とても近代的な場なのだなあ、とあらためて思う。伝統的な紐帯とは完全に切れたところで、新たな関係性が作られ、しかし、短期間でその関係も解消していく。つかの間の時間の速さと無機質な(と、なじみのない人には見えるであろう)コンクリートのアパートの中で、暫定的だが便宜的以上の意味合いは確かにあるはずのつがなりが作られ、そして消えていく。
何かを得たという感覚と、何かを失うという感覚と、両方ごちゃまぜになったところが「故郷/ホーム」となる。
それは、無機質で意味がないとも言えないし、かといって、有機的で確固たる意味に満たされたものとも言えない。
今でも、かつて住んでいた公務員住宅の風景を眺めるたびに(しかし、その風景もいつまで存続するかはわからない)、僕は何とも言えない感覚にとらわれるのだけれども、自分の子どもたちも、もしかしたら同じような感覚を抱くのだろうかと、ふと思う。そのことが、あの子たちにどのような影響を及ぼすのかは、わからない。