まだ読んでる

Krause, Civil Passions.第5章の途中(ただし、肝心の第3章が結構すっ飛ばし)。

Civil Passions: Moral Sentiment and Democratic Deliberation

Civil Passions: Moral Sentiment and Democratic Deliberation

 熟議deliberationがもっぱら「理性的」ということはありえず、感情的/情念的なものも作用しているのであるということ、感情の作用から「不偏性impartiality」に到達できること(感情は不偏性へのアンチテーゼではない)、どのような感情ならばアリなのかを明らかにすること、などが、主な課題ということのよう。
 著者によると、理性的とか合理的な正当化という場合でも、精査してみると、そこには「感情的affective」なものが関わっている。それは、たとえば、「共感sympathy」とか「関心consideration」とか「配慮/気遣いcare」とかである。というわけで、理性と感情を切り離すことはできないという話。感情が理性に優位するという話ではないし、感情と理性の役割分担を確定するという話でもない。
 というわけで、たとえば、アイリス・ヤングは熟議に感情を取り入れようとしているけれど、感情に基づく判断を不偏性ではなく部分的なものとして擁護している点や正統な感情とそうでない感情とを区別する基準を提起できていない。マーサ・ヌスバウムは、感情をemotionとして理解し「認知能力」のレベルに還元してしまう(ので問題)。ジョン・ドライゼックは、感情が理由reasonを公的に受け止められるものにする可能性を明らかにし、かつ、感情(のよしあし)を区別する基準も提起しているが、その基準は、結局、感情と区別された理性に求められている(が、感情と切り離された合理的正当化は(著者の立場では)あり得ないので限界)。
 第4章で、マンスブリッジの「熟議システム」論がかなり肯定的に参照されているのは興味深かった。「熟議システム」論は、熟議における感情の重要性をよく示しているという話(ただし、5章ではマンスブリッジへの留保もあり)。親密圏における熟議の問題を考えるときに参考になりそうな論述だった(これはちょっと先の課題だけど)。
 と、以上は、ちょっとテキトーなまとめなので、そのまま正確なまとめとして受け止めないように。
 さて、言っていることの大枠は了解できるつもりなのだが、どう評価すればよいのかなと思うと、ちょっとアタマが痛い。。。