Chambers 2004

  • Simone Chambers, "Behind Closed Doors: Publicity, Secrecy, and the Quality of Deliberation," Journal of Political Philosophy, Vol. 12, No. 4, pp. 389-410.


公開の空間(public sphere)における議論は、「国民投票理性(plebiscitory reason)」に支配される恐れがあり、閉じられた空間(closed session)における議論は「私的な」理由づけ(private reason)に支配される可能性がある。
前者については、国民投票理性(それは「操作」「迎合」「イメージ喚起」の戦略から成る)の支配を恐れて一部の人々による閉じられた空間での議論に期待をかけることは民主主義を拒否することになる(p. 400)。そうではなく、「非対称的に媒介されたコミュニケーション」を熟議的なものにする可能性を追求するべきである。そのためには、熟議のための諸条件の平等を考えるだけでは十分ではない(p.404, 410)。チェンバースはアリストテレスを参照しつつ、「熟議的なレトリック」の重要性を提起する。
後者については、「私的理由」であっても「ソクラテス的な」メカニズム(自分の主張をきちんと説明すること)が作動する可能性に注目する論者もいる(ガットマン/トンプソンやエルスター)。しかし、チェンバースは、あくまで、たとえソクラテス的であっても、「私的」理由に陥ることをどのように抑制するかが重要であると考える。ガットマン/トンプソンやエルスターが注目する合衆国の憲法制定会議も、今日からみれば、閉鎖的であったが故の問題性を免れることはできない(p. 405f.)。そこでチェンバースは、カントを参照し、意見がより「ソクラテス的な」ものであるためには真に異なる見解にさらされることが重要であるとする。よって、議論の場が非公開であればあるほど、考えうるあらゆる見解がその場に代表されることが大切となる。このことは、個別主義的な見解が議論の場を支配しないために重要なことである(p. 408)。


この論文でも少し言及されているけれど、チェンバースの閉鎖的な場における熟議への批判的視点は、後の論文における「ミニ・パブリックス」批判へとつながっていく。
・・・ということはともかくとして、今の自分の関心では、チェンバースの二つの切り分け方とは異なり、比較的「閉鎖的な空間」における「非対称的に媒介されたコミュニケーション」をどうするか、ということが問題なのである。彼女の4象限の図(p. 395)で言うと、「私的理性/国民投票理性」のボックスにおける熟議の可能性や如何、ということだ。その際、メンバーは固定的であるので、「考えられるあらゆる見解が代表される」ことは期待できない。
となると、可能性としては、たとえ「私的」理由に基づいていようとも、「熟議的レトリック」をどのように行使できるかがポイント、ということになるだろうか。もちろん、そのような空間で何故に当該アクターは、そのようなレトリックを行使できるのか、ということが問題になるのだが、そこは、構造/エージェンシーの理論、外部からの/におけるアクターのエンパワーメント、さらに実際の事例くらいで乗り切るしかないだろうか。。。