読書

『高畠通敏集2 政治の発見』の中の、「管理民主主義の政治構造」(初出:1978年)と、「一国社会主義者――急進的知識人の転向の原型」(初出:1959年)を読む。

高畠通敏集〈2〉政治の発見

高畠通敏集〈2〉政治の発見

前にも書いたと思うが、高畠氏の文体は、以前に思っていた以上にクリアカットかつ平易であり、大変素晴らしいことだと思う。
「管理民主主義の政治構造」を読んで、あらためて思ったのは、確かに70年代に管理社会論が唱えられたことには理由があったのだろうけれども、でも、まだ「ゆるさ」のようなものがあったのではないかな、ということだ。今と比べたら、管理からもれそうなところがたくさんあったんじゃないかなと思ってしまう。
でも、気管理社会が同時に「組織社会」でもあったという点を踏まえるならば、この印象は修正されるべきかもしれない。つまり、「組織」にとらわれて生活せざるを得ない(と観念されている)以上、その外に「ゆるさ」があったとしても、なかなかそこに出ていくことはできなかっただろうということだ。学校しかり、企業しかり。その外には「ゆるさ」があっただろうけれども、外には出ることができないと多くの人が思っていたのだろう。そこは、今とは観念の仕方がちょっと違うかもしれない。
「一国社会主義者」は、佐野・鍋山の転向を分析した論文。単なる屈服ではなく、「積極的原理」の発見によるプロレタリア革命運動の組み換えという体裁、その組み換えが依拠すべき「伝統的・民族的・社会心理的因素」として「天皇制」「日本民族の優秀性」を見出したことゆえに「天皇ファシズムへの献身のみ」に至ったこと、そしてそのことには、日本の共産主義者における経済的構造の変革のみに革命の内容を単純化し、天皇制という政治的次元の問題を等閑視する理論的傾向が影響していること、理論と日常的思考との乖離が逆説的にも「状況追随」をもたらすことなどが指摘されている。
高畠氏が問題にしているのは、「『誠実さ』のセンチメンタルな道徳主義」である。理論が過度に抽象化されることで、「大衆」「労働者」から乖離していることが認識されたとき、そのことが本人の「誠実さ」ゆえに道徳的に反省される結果として、後者への追随(現状肯定)が生じる。そこには、思想自体の発展を見出すことはできないが、このことこそが「日本思想史の伝統」であると、彼はいう。
ゆえに、高畠氏は、「真に生産的な思想を構成するためには、私たちはもっと「不誠実な」思想へと目を向けることが必要であろう。「世界がどのように必然的に革命への道を歩むにしても、それは私とは何ら関係ありません」といい切った高田保、「確かなことは自分が自分であるということだけ」と考えた埴谷雄高、あるいは「学者、政治家等の偽善」に「へど」をもよおした太宰治等の数少ない日本の「近代」は私たちの貴重な遺産である」という(268頁)。
うまく言えないが、重要な指摘であるような気がする。