読書

帰りの電車で、バーバー『〈私たち〉の場所』を読了。

“私たち”の場所―消費社会から市民社会をとりもどす

“私たち”の場所―消費社会から市民社会をとりもどす

なかなか面白い本でした。とくに、第1章「三つの市民社会」と第5章「市民社会における時間・仕事・余暇」が興味深かったです。第1章では、とくに、著者が「リバタリアン」と呼ぶ、「自由の私的領域を確保する目的で政府を抑制する」(52頁)古典的リベラリズム的な市民社会概念と著者の支持する「強くしなやかな民主主義」としての市民社会概念との違いについての叙述が参考になりました。
 また、第5章は、上記の研究会での議論とも関係していて、行きの電車で読んでおけばよかった、と思いました。著者の議論は、ポスト産業主義的なニュー・レフト、ベーシック・インカム論などとかなり重なっています*1。そして、僕の最近のいくつかのシティズンシップ関係の論考での議論を補強してくれるものでもあります。さらに、文章は、感動的でさえあります。
 いくつか引用を。

私たちの時代において生活保護を受け入れる者の生活に忍び寄る、依存意識という病理現象は、主要な価値が依然として仕事によって定義されている世界で、仕事なしで生きていくことがどれほど憂鬱で屈辱的かを示している。実際、中産階級の女性たちが、過去数十年間、彼女たちの地位と尊厳の探求の一部として、給料のもらえる仕事に殺到したことは、民間市場の領域外にいて給料をもらわない時間の使い方がどれほど興味を引かないものになっているかを示している。*2こうした現象が生じたのは、民間市場の労働が経済的に過剰になったとき、すなわち公共的な営み――コミュニティへの奉仕、子育て、文化的あるいは市民的な取組み、遊びという営み――がこれまで以上に必要となったまさにそのときであった。(196頁)

 理性の狡知はなんと狡猾であるのだろうか。人類が何千年にもわたってそのために努力してきた、仕事のない世界の入口についに立つまさにその時に、人類は恐怖を抱きながら、向きを変え、〔仕事への〕隷従の状態へと逃げていく。〔仕事という〕拘束する鎖を戻してくれ!と人類は叫ぶ。技術の奇跡的な達成で、仕事の代わりに私たちに与えられた自由を、取り消してくれ!私たちは、自由という大きな責任に直面するよりも、また民主的な市民社会を再び採り入れるよりも、あるいは経済的生き残りのための私的労働を放棄して、
人間的修養のために公共的な仕事の重要性を担うよりも、むしろ働こうとする。
 民主主義の論理は明瞭である。生産性が仕事を求め、仕事が地位と権力に結びつくようになってきたのだとすれば、民主主義は余暇を要求してきたのである。しかし近代において余暇が欠落している状態では、民主主義は二流である代議制度に甘んじなければならなかった。「賃金を稼ぐ者」という肩書が「市民」という肩書よりも尊敬される社会では、投票は任意であるが仕事は義務であるという道徳的規則を採用する人々を、誰が非難することができようか。(205頁)

 解雇されているということ、主婦であること、生活保護を受けている母親であること、家の仕事をする者であること、失業中であること、支払いを受けない市民的なボランティアであること、これらはどの場合も権力をともなわず、地位はなく、権限はない。それゆえに尊厳も認められない。私たちの経済体系における仕事の役割の転換は、私たちの市民的、道徳的体系の価値変更を、すなわち新たな公共的な意味で私たちがそれに向かって「努め」るべきものを、待たねばならないだろう。時間が自分の手中にある者は潜在的に私たちのもっとも有望な市民である。家の仕事をする人々、退職した人々、効率的な生産体系でもはや「必要とされ」ていない人々は、以前にもまして市民社会に必要とされている。経済資本に貢献する重荷から自由になっている人々は社会資本の潜在的な創造者になることができる。労働から価値をしぼりとる長い期間が続いたため、民主主義をこっそりと盗まれ、姿の見えなくなっていた市民を、仕事〈後〉の時代において民主主義は再発見することができる。(209-210頁)

*1:実際、アトキンソンの参加所得やアッカーマンのステイク・ホルダーグラントについても少し言及されています。

*2:ここは若干微妙な記述ではありますが、著者は「家事・子育ては女性がするもの」と考えているわけではありません。念のため。