読書

野家啓一実証主義の興亡――科学哲学の視座と所見」盛山和夫・土場学・野宮大志郎・織田輝哉編著『〈社会〉への知/現代社会学の理論と方法(下)』勁草書房、2005年、を再読。

「社会」への知/現代社会学の理論と方法〈下〉経験知の現在

「社会」への知/現代社会学の理論と方法〈下〉経験知の現在

 つねづね「反証(可能性)」というのがどういうものなのか、いまいち自分でよくわかっていないと思っているのだが、野家氏によると、

それゆえ、ポパーの方法論において探求の出発点となるのは、「観察」ではなく「問題(P)」なのである。科学者はその「問題」を解決しようとさまざまな「暫定的仮説(TT)」を提起する。この仮説は想像力を駆使した大胆な推測であり、単なる帰納によって得られるものではない。提起された仮説に対しては、あらゆる科学的手段を使って反証を試み、「誤謬排除(EE」に努めねばならない。この批判的吟味を通じて、新たな「問題(P’)」が生じる。それゆえ、ポパーが再構成した仮説演繹法は、図式化すれば「P→TT→EE→P’」(Popper 1972: 164=1974: 187)というプロセスをたどる。したがって、仮説が最終的に立証されることはありえない。「真なる理論」とは、現在まで反証のテストに耐えてきた仮説のことであり、科学的探求は絶えざる「推測と反駁」を繰り返す試行錯誤の過程なのである。(115頁)


 僕がよくわからないというのは、多くの「実証研究」と言われているものは、「反証」を試みているのだろうか、ということである。もちろん、従来の通説に対して、「反証」を試みる研究があるということは十分にわかっている。しかし、多くの「実証研究」は、先行する理論・仮説の「反証」の作業よりも、自らの理論・仮説の「検証」作業を、論文の中心作業としているのではないだろうか。もちろん、その場合でも、「従来はA理論で説明できるとされていたが、実はB理論の方がよりよく説明できるのである。」という構えを取っているのだろうけれども、しかし、論文で主に取り組まれている作業というのは、他説の反証ではなくて、自説の検証というか証明なのではないだろうか。こういう場合、「実証研究」は「反証」作業に取り組んでいるのか、「検証」作業に取り組んでいるのか、僕には今一歩よくわからないのである。