「指導」と「迎合」

 大学であろうとなかろうと、教員の世界では、「指導」という言葉は極めて頻繁に使われる。が、この言葉は同時に極めて曖昧にも見える。 『広辞苑』によると、「指導」とは、「目的に向かって教えみちびくこと」とある。しかし、この「目的」あるいは「到達点」は、しばしば指導される側には隠されている、またはよくわからない。たとえば、さすがに大学ではめったにないが、学校のなかには、今でも、大声で生徒をどなりつけたり、場合によっては髪をつかんで振り回したり、むなぐらをつかんだり、といったことが行われていることがあるらしい。藤井誠二氏の一連のルポを読めば、このテの話はたくさん出てくる。これは、第三者には、ただの「恫喝」または「暴力」にしか見えない。実際、道端でいきなりこんなことをやったら、間違いなく犯罪である。しかし、学校では、なぜか「指導」の名の下に容認されることがある。道端と学校とを区別する基準は何なのか?といえば、それは「指導」かどうかの違い、ということになるだろう。
 では、「指導」とそうでないただの「恫喝」や「暴力」とはどこが違うのか、と言えば、それはきっと「目的」があるかどうか、ということになるのだろう。でも、このような「指導」がどのような「目的」を持っているのか、指導される側には多分わからない。もしかしたら、教員本人もそれほど明確にはわかっていないのかもしれない。
 「おとなしくさせること」「黙って従わせること」が「目的」ならば、いちおう理屈はつく。しかし、その「目的」に向かって「教えみちびく」ことになっているのかといえば、疑わしいだろう。「恫喝」と「暴力」という行為が「教えみちびくこと」であればいちおう理屈は通る。しかし、それならばわざわざ「教員」という身分の人間が行うまでもないだろう。そういう行為が得意な特定のタイプの人がやればいいだけのことだ。
 そういうわけで、「指導」という名でなされる「恫喝」と「暴力」にはよくわからないことが多い。にもかかわらず、「恫喝」と「暴力」を行わない教員は、しばしば、生徒・学生に「迎合している」と判断される。「迎合」を、やはり広辞苑で引くと、「他人の意向を迎えてこれに合うようにすること。他人の機嫌をとること。」とある。生徒・学生の言うことに耳を傾けること、道理があると思う場合にはその言い分を尊重することと、「機嫌をとること」とはイコールではないはずだが、しばしば前者のような言動をとることが「迎合」とみなされる。比較的早期の段階の学校(つまり小学校など)では、生徒は教員に「人の話をちゃんと聞くように」とか、「思いやりのある人間になるように」とか、言われるはずであるが、教員になるとそういう言動をとると「迎合」と見なされてしまうというのは、どうも釈然としないところである。
 そういうわけで、教員は同僚に「迎合」しているといわれないために、しばしば「指導」の姿勢を強めることになりがちである。「指導」の程度を強めることは、それが「ゆきすぎた『指導』」として大きな社会問題にならない限り、「迎合」のレッテル回避を実現し、教員に安心感を与えてくれるだろう。それゆえ、社会問題にならない限り、「『厳しい』指導」はある意味で無謬である。「厳しく」しておけば、つまり恫喝や暴力の度合いを高めれば高めるほど、(社会問題にならない限り)間違いはないのだ。逆に、「優しく」することは、「迎合」する教員、学生・生徒に厳しく接することのできない不適格な教員、というレッテルを貼られることに接近する。
 かくして「厳しい」教員は安泰である。自らの地位と評価は維持される。「甘い」教員は排除される。そして、「指導とは何か?」「何のための指導か?」という根本問題は未解決のまま、学校の秩序は維持されていく。