5年経った

 日記が久しぶりになってしまいました。ものぐさの「本領発揮」かもしれません。この間、長男が5歳の誕生日を迎えました。この間、早かったといえば早かったです。ゼロ歳児のころは、すさまじい泣き方で親を「虐待寸前」まで困らせてくれた長男は、今でももちろん泣く時は泣くのですが、時には妙に落ち着いたところも見せるようになりました。一人で黙々と塗り絵をやったり、ひらがなを書いたりもできるようになりました。
 そういうときは、「大きくなったねえ」と一人感慨にふけるものです。二日に一回くらい、ふけっているような気もしますが。
 子どもが泣いたり、怒ったり、笑ったり、駄々をこねたりするのに振り回される日々は続いていますが、それでも、子どもと接することで月並みですが癒されている部分もあるのだろうなあ、と感じます。そういう意味では、子どもに育てられている部分もあるのかもしfれませんね。
 よく、「仕事では私の代わりはいるけれども、子育てで私の代わりはいない」とか、「子どもの成長する姿をしっかり見ておきたい」とかいった理由で、仕事を辞める女性がいる、と聞きます。「そのように思う人が著しく女性に偏っている」という点で、これは単なる「本人の意向」の問題ではなく、ジェンダーの問題であると考えられます。が、それはともかくとして、今の僕には、そういう気持ちを持つようになることが実感としてはよくわかるような気がします。と言っても、「自分が仕事を辞める」とまでは思えないわけですが、子育てのようないわゆる「プライベートな」ことを大事にしたい、という気持ちとしては、よくわかるということです。
 ところで、まさにこの点なのですが、子どもを育てるようになってつくづくと思うことは、いかに子育てを含む(いわゆる)「プライベートな」生活が「存在しないかのように」、仕事という「パブリックな」生活が成立している(しがち)か、ということです。そのようにして「パブリックな」世界が「男の」政界として成立してきたことは、フェミニズム的には常識的な知見ではありますが、「まあ、やっぱり、そうなっているよな」と思う場面は、研究者という一般的に見れば比較的「恵まれている」と見られる職種でも、多々存在します。何か公式の行事や仕事がある時に、「家庭の事情で」という理由で休みにくい/休めない傾向は、やっぱりあるのです。自分が中心になって(あるいは事実上自分だけで)子育てをやりつつ仕事をしてきた、そしてそのことゆえにいろいろあせりや疎外感も感じてきたであろう(大抵は)女性の研究者の方々の苦労は、大変なものだっただろうし、今でもそうであろうと推察します。日本社会「だけ」と断言することは慎重に留保したいですが、「子ども(家庭)を大事にする/したい」と公言できない空気が、まだまだ漂っている、というところでしょうか。前にも書いたと思うのですが、「結婚」前ならいざ知らず、日本において「ロマンティック・ラブ」とか「ファミリー・ロマンス」が「結婚」後も「ホンネ」として承認されたことはあるのか、と疑問に思う日々です。
 これに対して、ヨーロッパで例えば有名なサッカー選手が「家族との時間を大事にしたいから代表を辞退する」と言ったり、日本でもプロ野球の外国人選手が大事な試合の前に家族のことで帰国することがあったり、というようなことがあります。「家族一体主義」に気をつけなければならないことを前提として、そしてかの国・地域の感覚を非ネイティブとして十分に理解できていないかもしれないことを承知で、あえて言えば、このようなかたちでの「ファミリー・ファースト」あるいは「プライベート・ファースト」はもっと推奨されてしかるべきだろうと思うのです。
 これは、学問的には、アンペイド・ワークあるいはケア活動・労働と言われるものの再評価や公/私の再考などに関わってくるでしょう。後者は多少なりとも手をつけてきたのですが、これからは前者のことにも取り組んでゆきたいと思っています。