千葉 2009

以前に頂いていた、千葉眞『「未完の革命」としての平和憲法』(岩波書店、2009年)を、手に取り、読み終える。

「未完の革命」としての平和憲法

「未完の革命」としての平和憲法

僕の理解では、本書の主張は次の二つである。一つは、一般的に(近代)立憲主義を、「法の支配」に基づく支配権力の制限と抑制という意味での「消極面」(リベラル・モメント)だけでなく、人民主権に基づく支配権力の創出と制定という「積極面」(構成的モメント)においても理解するということである。もう一つは、具体的に日本国憲法において、「デモクラシー、人権尊重主義、平和主義」を、その構成的モメントとして理解することができる、ということである(日本国憲法は、これらの構成的モメントの将来における実現を約束する「未完の革命」というわけである)。
いずれも、立憲主義をかなり厳格に(というか狭く)「法の支配」としてのリベラル・モメントにおいて捉える最近の(特に憲法学の一部における)風潮に対する異議申し立てと言うことができる。その意味では、著者の力点は、「構成的モメント」の積極的抽出にある、と言うことができるだろう。
そのような著者の立場からして、著者は「リベラル・モメント」と「構成的モメント」との緊張関係、つまり、立憲主義と民主主義との緊張関係については、よく認識している(特に第2章)「純粋な民主主義を表現している人民の憲法制定権力は、憲法創造の源泉であると同時に憲法への脅威の源泉でもある」(75頁)。
しかし、「構成的コメント」の諸要素の間の緊張関係については、必ずしも十分に注意が払われていないように見える。具体的には、「デモクラシー」と「平和主義」との関係について、著者の関心は、歴史的事実としての日本国憲法の制定過程の理解から両者を構成的モメントの要素として捉えることに向けられており、両者の緊張関係について、理論的に考察することにはそれほど注意が払われていないように見える。しかし、具体的な日本国憲法において、両者を「構成的モメント」として解釈することができるとしても、一般的に、民主主義であることが平和主義への支持をあらかじめ約束するとは言えないことも確かである。このあたりの考察が、「政治学的」な憲法の考察には求められるのではないだろうか。