松田他 2010

松田茂樹・汐見・和恵・品田知美・末盛慶『揺らぐ子育て基盤』勁草書房、2010年。第1部「子育て・保育のいま」まで読了。

揺らぐ子育て基盤―少子化社会の現状と困難

揺らぐ子育て基盤―少子化社会の現状と困難

第3章「居住環境と親子生活」(品田知美)からいくつか。

父親が日常的な育児の分担者として、あてにされようがない理由ははっきりしている。首都圏と愛知県どちらにおいても、父親の仕事時間は平均でおよそ11時間にもなるからだ。それに、首都圏では片道50分ほど、愛知県では35分ほどの通勤が加わる。母と子からみれば父親はほとんど不在である。この現実がある限り父親が子育ての実質的な担当者となることは物理的に難しく、片働きを前提として多少遠くても「環境がいい」ところに建つ住宅が好まれる。そうやって日本の郊外住宅地は拡大しつづけてきたのだ。(カギカッコは原文傍点)(83頁)

では、子育てによりよい居住環境を整えるにはどうしたらよいのか。ニュータウン時代に「子育てによい」とはすなわち「子どもによい」ことを意味してきたが、今後は親のワーク・ライフ・バランスがより考慮されていくだろう。(84頁)

ところで、「首都圏では郊外地域を中心に、ホームパーティなどの社交形式も定着している。他方、愛知県では、家に他人をあまり招かない傾向が知られている」(87頁)のだそう。ふ〜ん、そうなのか。著者によると、ホームパーティというのは、アメリカのそれも含めて、(近隣・親族中心の)村落共同体的性格の薄い、ニュー・カマーの多い(したがって、孤立しやすい)地域における社交の作法ということのようだ。一方の実感として、(それこそオーストラリアでのわずかな居住経験からしても)なるほどと思う反面、他方の実感として、日本でも昔は「ホーム・パーティ」とは言わないかもしれないけど、職場の同僚などをよく家に招いていたのではないかなとも思う。いや、でもそれは、「社交」というより「会社交」か。共同性の存在を基礎にして、その「結束」を強めるための集まりと、共同性がないところで、その基礎を作るための「社交」との違い、かな。


 あと、この本を読みながらあらためて思っているのは、夫婦がいても「一人でやらねばならない」と(たいていは妻が)思うと、夫以外の人的ネットワークを探そうとするのだろうな、ということ。僕の場合は、日本にいるときは、まず夫婦でできるだけ分担して、それはどうしてもダメな場合のみ、いわば「やむをえず」他のネットワークに依拠する、という感じだった(といっても、保育園とかの制度を利用するのは、「やむを得ず」には含まれない。それは、デファクト)。でも、こっちに来ると、確かに最初は「一人で」と思っていなかったわけではないのだけど、やっぱり周りにいる人々に何かと助けてもらうことになるなあ、と実感している。それは、「家族内」で分担できないことの不可避的な帰結なのだろう。